熊野の長藤2019(4)熊野御前の墓

熊野御前の命日とされる5月3日には熊野御前供養祭が行われます。

熊野(左)と熊野の母(右)の墓

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Img_9039 手前が熊野の墓

平安の頃、池田の宿に、花のように美しく優しい熊野という娘がおりました。見付の国府に赴任していた平宗盛に見初められた熊野は、やがて都へ上って行きました。
 宗盛と幸せな日々を送っていた熊野のもとに、ある日、母の病の報せが届きます。池田へ帰りたいという熊野の願いを、しかし宗盛は愛するあまり放しがたく、聞き入れてくれません。
 春、桜見物の席で、熊野は、「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)と詠み、その心に打たれた宗盛はついに別れを決心するのでした。
 母娘は、再会を喜びましたが、母の命は長くありませんでした。まもなく愛する宗盛の戦死と平家滅亡を聞いた熊野は、尼となり静かに生涯を終えました。
 熊野が祈りを捧げた庵のあとの行興寺の庭には今も母のために熊野が植えた藤の花が、毎年長い花房をつけています。

(豊田町発行「熊野御前」より)

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頼朝の愛した新居町(3)女屋跡

新居町親水公園を通って進んでいくと、女屋跡(おなやあと)という史跡があります。

親水公園
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女屋跡(おなやあと)
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 橋本宿は、鎌倉時代、東海道の宿として栄えたところで、遊女が多くいたことから花香町(はなかちょう)とも呼ばれた。
 
 ここは橋本宿の長者屋敷の一角と考えられ、建久元年(1190) 源頼朝上洛の際に多数の遊女が群参したことからこの名が付けられたといわれる。長者の娘「妙相」と頼朝の恋物語が残っている。
 

 一説によると、頼朝の家臣が止陣した「御長屋」の跡とか「御納屋」の跡との説があるが定かでない。

   平成22年3月   湖西市教育委員会

 

 

これを読むと、頼朝はかなりのモテ男だったようですね(゚∀゚)


 

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熊野の長藤 2019(3)池田の渡し

明治時代初期まで、天竜川には橋が架けられていませんでした。

古来、磐田市池田地区は天竜川の渡船場として賑わっており、徳川家康により渡船の運営権が保証されて以来、江戸時代を通じて東西交通の役割をほとんど一手に担い、この地域の経済・文化交流の場として栄えていました。

明治に入り、明治11年(1878)木橋の完成とともに、天竜川池田渡船は長い歴史を閉じました。

平成元年(1989)、渡船保存会を発足し、100年ぶりに渡船が復活し、長藤祭りに合わせ、池田の渡しを再現した渡船体験イベントを実施しています。

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