源頼朝ゆかりの上田端八幡神社

東京都北区田端に鎮座する上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、文治5年(1189年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社です。
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現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)で、境内には稲荷神社・大山祗(おおやまつみ)神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その付近の畑の中には、争いの杉と呼ばれる神木がありました。木の高さは二丈五尺(約8.3m)余、幹の太さは九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。
そこで、奥州平泉の高館(たかだち)に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木かと争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉の木は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌(*1)の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。
このように境内の白鬚神社は、鎌倉から室町時代の貴重な伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考えるうえで重要な資料といえます。(東京都北区教育委員会)
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東覚寺の赤紙が貼られた金剛力士像

東京都北区田端の東覚寺の山門には、赤紙が貼られた金剛力士像があります。


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これは、通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われています。


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また、その後病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在残っているそうです。 


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江戸時代までは東覚寺が別当寺を務めており、仁王像は隣接する田端八幡神社の前にありました。その後、神仏分離令発令によって、明治時代に東覚寺の前にあった九品仏堂の前に移転、そして2008年に道路拡張の際にさらに後方に移転。1998年に北区の指定文化財になりました。


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源頼朝ゆかりの田端八幡神社

東京都北区田端二丁目に鎮座する田端八幡神社
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祭神は品陀和気命(応神天皇)
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1189(文治5)年、源頼朝が、この地の豪族・豊島氏らと共に奥州藤原氏を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請、祭祀を起こし、郷土の鎮守とした神社です。
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この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神をしています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
 現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
 参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
 社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)二)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。(平成9年3月 東京都北区教育委員会)
 
富士浅間社                             稲荷社
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