2026年10月 4日 (日)

伊豆の国市 願成就院(1)北条氏の氏寺

願成就院は、『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で、鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のため建立したといいますが、寺に残る運慶作の諸仏は、文治2年(1186年)から造り始められていることから、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられています。

1_20261004124501

2_20261004124501

大御堂
3_20261004124501


その後、北条義時や北条泰時によって堂塔が整備され、巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ壮大な寺院となっていきました。

しかし、室町時代、北条早雲に攻められた堀越公方の足利茶々丸がこの寺に逃げ込んだことから、戦火に見舞われ願成就院はほぼ全焼。

さらに豊臣秀吉の小田原攻めの際、再度戦火に見舞われ全焼。本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出されたため、焼失は免れましたが多くの寺宝は灰燼に帰し、願成就院は事実上壊滅してしまいました。

江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が再建し、現在の遺構はほぼその当時のものであるといいます。

茅葺の本堂は、寛政元年(1789年)の建立とされています。

4_20261004124501

寺宝には、運慶が30代の時に造った阿弥陀如来・ 毘沙門天・不動三尊と、北条政子の7回忌に造られた政子地蔵、本堂の阿弥陀如来像などがあります。

5_20261004124501

6_20261004124501

7_20261004124601

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

2026年9月30日 (水)

伊豆の国市「北条氏邸跡」(円成寺跡)

伊豆の国市の守山西公園入口に「北条一族のふるさとと寺院」という案内板があります。

1_20260924114701

北条氏邸跡がある守山は、北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。

守山の東側には、願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。

元弘2(1333)年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻ると、邸宅跡に、一族の円成尼が中心となって、北条氏の冥福を祈るために円成寺を建てました。

平成4年~5年の発掘調査では、平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏邸があることが確認されました。

2_20260924114701

北条氏邸跡は、北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と、円成寺跡が発見され、国指定史跡に指定されました。北条氏邸跡は今後、史跡公園整備が計画されており、発掘調査が進められています。(伊豆の国市HP参照)

3_20260924114701

4_20260924114701

5_20260924114801

6_20260924114701

7_20260924114701

8_20260924114901

9_20260924114701

10_20260924114901

史跡 北条氏邸跡(円成寺跡)

北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日町付近)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることができる遺跡としてきわめて重要なのです。
 1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心となって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。
 現在の発掘調査では円成寺に関連する池や溝が見つかっています。
(案内板より)

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

2026年9月13日 (日)

伊豆の国市 「頼朝と政子 蛭ヶ島の夫婦の像」

韮山駅の東側には蛭ヶ小島、西側には狩野川。

蛭ヶ小島は、かつては狩野川の中州であったと考えられ、蛭が多かったことから「蛭ヶ小島」と名付けられたといいます。

9_20260913164101

蛭ヶ小島は、源頼朝が14歳の時に配流され、北条政子と出会い、14歳から34歳まで過ごした地。

※配流地については諸説あり、はじめから北条であったという説、伊東から北条へ移ったという説もあります。
この碑が建つ場所は、後世の推測された伝承地であるそうです。)

10_20260913164101

 蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)

 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝 配流の地といわれている。
 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。

 永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。

しかし、 「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻・政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。

このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。

 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。

また、この碑の西側にある高い碑は秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

 伊豆の国市


その蛭ヶ小島の公園の一角に頼朝と政子の夫婦の像があります。

1_20260913164001

2_20260913164001

3_20260913164001

4_20260913164001

周囲は田園に囲まれ、夫婦の像は富士山を仰いでいます。

5_20260913164001

6_20260913164001

7_20260913164001

蛭ヶ島茶屋
8_20260913164001


蛭ヶ島公園内にある無料休憩所 。

無料のお茶サービスをはじめ、うどん、そば、味噌おでんなどの軽食を楽しめます。

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

«伊豆の国市 北条政子産湯の井戸

2026年10月
日 月 火 水 木 金 土
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリー

無料ブログはココログ