2020年2月21日 (金)

大原の源平史跡(5)寂光院 山門~本堂

大原の寂光院は、平清盛の娘・建礼門院徳子が、平家滅亡後に隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られています。

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寂光院
天台宗の尼寺で、山号は清香山、寺号は玉泉寺という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩薩を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。
文治元年(1185)9月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、後閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸として知られている。

旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊・六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである。
京都市(駒札より)

 

 山門               本堂

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本堂は、片桐且元が奉行として慶長年間(1596年~1615年)に再興されましたが、2000年(平成12年)に放火で焼失し、現在の本堂は2005年(平成17年)6月に再建されました。その際、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味し、5年の歳月をかけて造られたそうです。

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2020年2月10日 (月)

大原の源平史跡(4)建礼門院ゆかりの朧の清水

三千院から寂光院に向かいます。

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コスモス畑やのどかな田園風景を楽しみながら進んでいきます。

呂川の川沿いに降りてゆく道が、いつの間にか大原女の小径と名付けられていました。

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ここまで来ると、人とすれ違うことがなくなります。

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三千院はあんなに混んでいたのに、寂光院に向かう人は少ないのかな。

 

平家物語ゆかりの朧の清水

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建礼門院が寂光院への道すがら、月の明かりでこの泉にやつれた姿を映し嘆いたとたといいます。

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ところどころに紅葉も見られます。

寂光院まであと少し。

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2020年1月27日 (月)

大原の源平史跡(3)建礼門院大原西陵

寂光院の門前手前の斜面に紅葉に彩られた参道が一直線に伸びています。

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ここを上った高台に建礼門院徳子の墓所と伝えられる建礼門院大原西陵があります。

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前の記事に書いた後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して、こちらは大原西陵と言います。

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鳥居の中に五輪塔がある仏教式御陵となっています。

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高倉天皇の中宮。名は徳子。父は平清盛,母は平時信の娘時子。承安1(1171)年高倉天皇の女御として入内し,翌年中宮となった。治承2(1178)年言仁親王(→安徳天皇)を産み,養和1(1181)年門院宣下。元暦2(1185)年平氏が壇ノ浦の合戦に敗れると,安徳天皇とともに入水したが救助され,落飾して真如覚と号した。のち大原寂光院に閑居して仏に仕えた。陵墓は寂光院裏山の大原西陵。 (コトバンクより)

 

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