2026年3月 1日 (日)

修善寺の旅(4)源範頼の墓

源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。

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その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。


修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。

現在の範頼墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。

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 範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。
 治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、 範頼も背くようになると疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝え られ、 悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。
 範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、 日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。


範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

神奈川県横須賀市にある追浜という地名の由来は鎌倉方から追われた範頼がここに上陸した為と言われておりその際に現地の者たちに匿ってもらった礼に自分の蒲の字を与え蒲谷と名乗らせたという言い伝えがある。

このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には、範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。

また伊予国の上吾川(現愛媛県伊予市)の称名寺と隣接する鎌倉神社にはこの地へ逃れてきたとされる範頼の伝説と墓所が存在している。(Wikipediaより)

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お墓のある高台からは、修善寺の街が一望できます。

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2026年2月21日 (土)

修善寺の旅(3)源範頼の終焉の地・日枝神社の巨木

日枝神社の境内には、巨木が数本そびえています。

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境内にそびえる根周り約5.5m、高さ約25mの「一位樫」は、伊豆には珍しい樹木として県の天然記念物になっています。

また、2本の杉の根元が一つになっている樹齢800年以上の「夫婦杉」があり、日枝神社は子宝祈願の神社としても有名です。

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日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。 明治初年(1868)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場中に響き渡る。
境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。
また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。

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2026年2月 8日 (日)

修善寺の旅(2)源範頼の終焉の地・日枝神社の信功院跡

修善寺の日枝神社は、隣にある修禅寺の鬼門に当たり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)で弘法大師の建立といわれています。

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明治初年(1868)の神仏分離令により分離されました。

境内には、源範頼が幽閉されていた信功院があった場所でもあります。

源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示し、異心なきを誓っていましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆国修禅寺に幽閉されました。

その後、梶原景時に攻められ自刃したと伝えられています。

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建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。

8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流した(『吾妻鏡』)。

8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。

『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。

8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我兄弟の同腹の兄弟(異父兄弟)である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)という人物が範頼の縁座として処刑されている。
(Wikipediaより)

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信功院跡
修禅寺の八塔司の一つである信功院があった所です。
建久4年(1193年)、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。
翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したと云われています。
信功院は後に庚申堂となり、今は、文政元年(1818年)建立の庚申塔が一基残っています。

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