源頼朝布陣伝承地(3)音無親水公園

音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くから四季の行楽の名所、景勝の地でしたが、戦後の発展とともに石神井川は生活排水などで汚れた川となってしまいました。

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昭和30年代から始まった改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。(東京都北区HP参照)

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音無川のこのあたりは、 古くから名所として知られていました。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。

「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれていると記されています。

こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

    たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影

                                

飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より

 昭和六十三年三月                      東 京 都 北 区 」

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源頼朝布陣伝承地(2)松橋弁天

かつて金剛寺の領域内には松橋弁天と呼ばれる弁才天を祀った祠がありました。

当寺院傍に流れる石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天で、弘法大師の作ともいわれています。松橋は当地の旧名で、弁才天は岩屋にあったことから岩屋弁天ともいわれました。

『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われているそうです。

弁天像を納めていた岩屋も、1975年頃に石神井川の護岸工事が行われた際に取り壊されてしまったそう。

現在都営住宅が建っている付近の崖に、かつては弁天の滝と呼ばれていた滝があり、夏は滝で水遊びをして涼をとる様子が、広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれているそうです。

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もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。

崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。

また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。

滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。(案内板より) 


石神井川
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石神井川にかかる松橋
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源頼朝布陣伝承地(1)紅葉寺と呼ばれる金剛寺

今から5年前のことですが、東京都北区滝野川の源頼朝布陣伝承地を訪ねました。
秋は紅葉の名所として「紅葉寺」として知られている金剛寺は、源頼朝が伊豆で挙兵した後、隅田川を渡って武蔵国へ攻め入る際、陣を張った場所といわれています。
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寺伝によると、弘法大師・空海がこの地を遊歴し自ら不動明王像を彫ったと言われている。 この不動像は現在当寺院の本尊になっているものである。
その後、平安時代末期・源頼朝の時代に源頼朝自身が当地に布陣を張り、堂宇を建立また田園を寄進したと伝えられている。
その後、荒廃したが戦国時代に天文年間に阿闍梨宥印という僧が再興し、真言宗の寺院にしたと言われている。
当寺院一帯は江戸時代から紅葉の名所として知られていたことから、当寺院は紅葉寺の別称でも知られている。
また、当寺院付近は豊島氏の支族滝野川氏の居館である滝野川城跡であるとも言われ、滝野川の歴史を知る上でも価値があるものとされている。(Wikipediaより)
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治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向い、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。
この途次(とじ)の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓(かえで)があり、深山幽谷(しんざんゆうこく)の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。
金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(北区飛鳥山博物館 文化財説明板より)

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