2021年7月19日 (月)

平忠度の腕塚堂(平忠度塚)

ところ変わって、神戸にある平忠度の史跡を紹介します。

神戸市長田区にある平忠度腕塚堂(平忠度塚)

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 腕塚堂(平忠度塚)

 平忠度
は、平清盛の末弟で、歌道にもすぐれた豪勇で知られた武将でした。
源平一の谷合戦(1184年)のとき、平忠度は一の谷陣の大将でしたが、敗れて駒ヶ森指して落ちていく途中、源氏の武将岡部六弥太忠澄と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に後ろから右腕を切り落とされてしまいました。忠度はついに静かに念仏して討たれ、そのエビラ(矢を入れて背に負う道具)には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙片が結ばれていたといわれています。
 この腕塚は、忠度の切り落とされた腕を埋めたところと伝えられ、腕、足、腰の痛みが治ると人々から信仰されています。(駒札より)

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忠度の立派な祭壇があります。

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この十三重塔はこの忠度を祀る石塔と伝えられています。

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ここから東に約300メートル離れたところに平忠度胴塚がありますが、どちらも非常にわかりにくいところにあります。

 

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2021年7月12日 (月)

岡部六弥太忠澄が創建した普済寺

岡部氏の館跡である深谷の普済寺は、建久2年(1191年)岡部六弥太忠澄が創建したといわれています。

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発掘調査によると、一辺南北240メートル、東西270メートルの約6町歩の広大な敷地が館跡と推定されているそうです。

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普済寺の寺号は、六弥太の法名「普済寺殿道海大禅定門 (ふさいじでんだいぜんじょうもん)」から、また山号の「玉龍院」は、夫人の法名「玉龍院殿妙和大禅定尼」(ぎょくりゅういんでんみょうわぜんじょうに)からきています。

本堂の中央には、岡部家の家紋「 丸に跳ね十字」紋があります

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また、境内には、平忠度(ただのり)の歌碑もあります。

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「ゆふくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよひの主ならまし  忠度」

源平の一ノ谷合戦で、六弥太は平家方の平忠度を討ち取りましたが、忠度の供養塔を建てて供養しました。

 

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2021年7月 5日 (月)

深谷の岡部六弥太忠澄の墓

次は、深谷市普済寺にある岡部六弥太忠澄の墓を紹介します。

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こちらは、忠澄だけでなく、岡部一族の墓所になっています。

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岡部六弥太忠澄は、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになりました。

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忠澄は、治承・寿永の乱の際には、源氏方につき出兵しています。

特に一の谷の戦いで、平家の平忠度を討った場面は、平家物語にも登場します。

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五輪塔が6基並んでおり、全体像を一度に見ることができなのですが、中央の最も大きいものが忠澄のものとされています。

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向って右側が父・行忠の墓 

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左側が、夫人・玉の井の墓といわれているようです。

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保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形勢が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。この話は『平家物語』を典拠とする話である。

平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従った。建久8年(1197年)没。墓所は深谷市普済寺隣りの公園にある。夫人や他の岡部一族と共に埋葬されている。ただしこの墓は藤原助重のものだという見解もある。この墓地には石塔が六基あり、右から二番目のものが忠澄の墓とされている。

平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。ただしこの五輪の塔から出土した遺物及び五輪の塔の形状から、これらは忠度や忠澄の生きた平安末期から100年ほど経過した後に建築されたものではないかとも考えられている。(Wikipediaより)

 

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