2025年2月14日 (金)

妙本寺(4)源頼家の娘・源媄子の墓

妙本寺の境内に、源頼家の娘・源媄子(よしこ)の墓があります。

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寺伝によると、

鎌倉幕府2代将軍 源頼家と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。
生き残った媄子(よしこ)は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。
幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方となりました。
懐妊しましたが死産で、本人も32歳で死去されました。遺言に「自分はお釈迦様を信仰しているので、亡き後はこのお像をお祀りする堂を造り、供養をしてほしい」とあり、遺言通り釈迦堂が造られました。
釈迦堂は、天保年間(江戸末期)に祖師堂前左側に移築され(現存せず)、釈迦堂跡地にお墓が建てられました。

以下、Wikipedeiaより
鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝によれば媄子(よしこ)。一幡、公暁は異母兄または同母兄、栄実は異母兄、禅暁は異母兄または異母弟と考えられている。
母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっており、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えるが、「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘若狭局と考えられる(美濃局については竹御所の乳母が正しく、その後ろ盾で承久の乱に連座した河野氏が再興されたとする説もある)。

誕生の翌年に比企能員の変が起こり、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺された。建保4年(1216年)3月5日、祖母・北条政子の命により、15歳で叔父の源実朝の御台所・坊門信子に謁見し、その猶子となる。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。

寛喜2年(1230年)、29歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した。享年33。これにより頼朝の直系子孫は死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶した。

藤原定家の日記『明月記』によると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは、源氏棟梁の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家はこのことに対し「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べている。

なお、『吾妻鏡』嘉禎元年七月二十七日条には、「竹御所の姫君」が喪の期間を終えたと記されている。

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2025年2月 1日 (土)

妙本寺(3)若狭局を祀る蛇苦止堂

妙本寺の方丈門のところに境内の案内図があります。

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ここから門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段があり、これを上って行くと、蛇苦止堂というお堂に辿り着きます。

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比企の乱で、井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され、蛇苦止堂(じゃくしどう)に祀られたといいます。

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比企の乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。讃岐局の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。それ以来、今も毎月1日(正月は2日)に例祭をつとめ、信徒と共に法華経読誦唱題が続けられています。(妙本寺HPより)

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若狭局
父能員は初代将軍源頼朝の乳母・比企尼の甥であり、その縁故によって頼朝の嫡男・頼家の乳母父となった。頼家の妻妾となった若狭局は建久9年(1198年)、頼家が17歳の時に長子一幡を生む。

一幡が6歳になった建仁3年(1203年)8月、病となった頼家が危篤状態に陥り、その家督相続を巡り若狭局の一族比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏との対立による比企能員の変が起こる。9月2日、能員が北条時政によって謀殺され、知らせを受けて一幡の屋敷である小御所に立て籠もった比企一族は北条義時率いる大軍に攻められ、屋敷に火を放って自害し、一族は滅亡した。『吾妻鏡』では一幡と若狭局もその時焼死したとしている。(Wikipediaより)

蛇苦止ノ井は、若狭局が身を投げた井戸とされています。

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2025年1月23日 (木)

妙本寺(2)比企一族の墓

妙本寺の境内には比企一族の墓一幡の袖塚があります。

比企一族の墓
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北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。

1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 

これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。

しかし、このことが時政の耳に入り、時政は能員を自宅に招き、殺害。

続いて北条氏は比企谷の比企一族の屋敷を襲撃。

一族は一幡を守ろうと防戦しまいたが、屋敷に火が放たれ、母とともに焼死、後で焼け跡から一幡の袖が見つかったといいます。

一幡はその時、わずか6歳でした。

しかし、一幡の死には諸説あり、一幡は母が抱いて逃げ延びたが、後に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという説も。

一幡の袖塚
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石碑に「源頼家卿嫡男一幡君」の文字が刻まれています。

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初代将軍源頼朝の嫡男頼家の長子として誕生。初孫誕生の翌年、祖父頼朝が死去し父頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった建仁3年(1203年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏が対立し、比企能員の変が起こる。

『愚管抄』によると、重病に陥った頼家は家督をすべて一幡に譲ろうとしたが、それでは一幡の外祖父比企能員の全盛となる事を恐れた北条時政が、能員を呼び出して謀殺し、頼家の弟で一幡の叔父である千幡を次期将軍に立てるべく都へ使者を送り、その間に比企一族は北条氏一派の率いる大軍に攻められて滅亡した。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。享年6。頼家の子女の中で最初の死亡者である。

鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職を譲り、時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職が譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と実朝の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。
(Wikipediaより)

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