妙本寺(4)源頼家の娘・源媄子の墓
妙本寺の境内に、源頼家の娘・源媄子(よしこ)の墓があります。
寺伝によると、
鎌倉幕府2代将軍 源頼家と比企能員の娘 讃岐局との間に生まれましたが、比企の乱で一族が滅ぼされました。
生き残った媄子(よしこ)は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。
幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方となりました。
懐妊しましたが死産で、本人も32歳で死去されました。遺言に「自分はお釈迦様を信仰しているので、亡き後はこのお像をお祀りする堂を造り、供養をしてほしい」とあり、遺言通り釈迦堂が造られました。
釈迦堂は、天保年間(江戸末期)に祖師堂前左側に移築され(現存せず)、釈迦堂跡地にお墓が建てられました。
以下、Wikipedeiaより
鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝によれば媄子(よしこ)。一幡、公暁は異母兄または同母兄、栄実は異母兄、禅暁は異母兄または異母弟と考えられている。
母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっており、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えるが、「竹の御所」と呼ばれた鞠子の邸は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘若狭局と考えられる(美濃局については竹御所の乳母が正しく、その後ろ盾で承久の乱に連座した河野氏が再興されたとする説もある)。
誕生の翌年に比企能員の変が起こり、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、間もなく暗殺された。建保4年(1216年)3月5日、祖母・北条政子の命により、15歳で叔父の源実朝の御台所・坊門信子に謁見し、その猶子となる。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。
寛喜2年(1230年)、29歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した。享年33。これにより頼朝の直系子孫は死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶した。
藤原定家の日記『明月記』によると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは、源氏棟梁の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家はこのことに対し「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べている。
なお、『吾妻鏡』嘉禎元年七月二十七日条には、「竹御所の姫君」が喪の期間を終えたと記されている。
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