2026年9月 3日 (木)

伊豆の国市 北条政子産湯の井戸

伊豆の国市寺家字守山に北条政子産湯の井戸があります。

源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として1157(保元2)年、この地に誕生しました。その時に産湯の水を とったのが、この井戸と伝えられています。守山北麓の一帯は北条氏の屋敷跡で、後に堀越御所が造られました。この井戸の水は北条政子の伝承から、安産に霊験ありとして、近年まで妊婦に飲ませていました。また、昭和33年の狩野川台風の時、この井戸は泥水に浸からなかったため、付近の住民の飲料水ともなりま した。
(伊豆の国観光協会HPより )

北条氏邸・円成寺跡の東側に位置する井戸であるため、いつの頃からか「政子産湯の井戸」と呼ばれるようになった。本当の北条政子産湯の井戸は隣接する北条氏邸内にあったと考えられる。実際は石造りの井戸で明らかに江戸時代以降の井戸である。かつては近隣の人々の間にこの井戸に安産を願うという信仰などもあったという。
(Wikipediaより)

Photo_20260903120101

2_20260903120101

3_20260903120101

4_20260903120101

  北条政子産湯の井戸
 保元2年(1157年)源頼朝の妻・北条政子がこの地に誕生した時に、産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられています。かつては、妊婦がこの井戸の水を飲んで安産を祈願すると云う信仰がありました。
※現在は飲めません。

 北条政子
保元2年(1157年)ー嘉禄元年(1225)

鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
伊豆国韮山の豪族、北条時政の長女で、源頼朝が韮山の蛭ヶ島に流されていた時に出会い、恋仲となる。打倒平家のため、挙兵した頼朝を支え、武家政権の樹立に貢献した。頼朝が鎌倉に幕府を開いた後は、御台所として存在感を放った。頼朝の死後、嫡男・頼家、次男・実朝が相次いて暗殺されたが、京都から迎えた幼い将軍の後見人となって幕府の実権を握り、世に尼将軍と称された。

この石碑と井戸は隣接しておらず、井戸はここを曲がってさらに奥に入ったつきあたりにあるため、初めて訪ねた時は、井戸を見ずに帰ってきてしまい、悔しい思いをしました。

小学生の遠足でも、この井戸を見つけられずに迷っていることがあるそうです。

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

2026年8月21日 (金)

源頼家の面が伝わる韮山の光照寺

伊豆の国市韮山の政子産湯の井戸の近くに、光照寺があります。

1_20260821175901

もとは北条時政が源頼朝のために建てた館の跡で、頼朝の死後に寺になったそうです。

2_20260821175901

伊豆には、源頼家の面に伝わる伝承がいくつか残されています。

頼家の病状を伝えるため、面に写して鎌倉に送ったという共通点はあるものの、面を刻むに至った理由については

・北条氏が密かに温泉に漆を混入させ、頼家の全身をかぶれさせた

・単に伝えるため

の2種類が認められ、


面を届ける使者を武田信光とするもの、「何某」とするもの


頼家の死を知った使者が

・怒りのあまり命を絶った

・面を近くの寺に預け、修禅寺に戻った

・仏門に入り、守山に庵を結び住んだ

の3種類があるそうです。


光照寺に伝わる話によると、

修善寺で療養していた頼家の病状が悪化し、それを北条政子に伝えるため、頼家の顔を面に刻み、使者が鎌倉へ運ぼうとしましたが、
当寺付近で、頼家の訃報を別の使者から聞いたため、その面を光照寺に納め、ただちに修禅寺に引き返したといいます。

*以前、こちらに伝わる源頼家のお面をご住職のご厚意で見せていただきました。

修禅寺の宝物館で見た頼家の面とは違って、ユーモラスな表情に見えました。

3_20260821175901

光照寺の面は、病により、目を閉じ口を開けた苦しげな様子、修禅寺の面は、歯をむき出した苦悶の表情という違った印象を与えています。

これらの面と似たものが、舞楽面にあります。

私の母は、学生時代、演劇部に所属していて、文化祭で「修禅寺物語」で上演した際、頼家を演じたことから、以来頼家の面に興味を持っていたので、この面を拝ませていただき、大変感動していました。


なお、光照寺の頼家の面は、通常非公開となっています。

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

2026年8月13日 (木)

修善寺の旅(20)源頼家ゆかりの月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊

修禅寺に幽閉されていた源頼家が非業の死を遂げたことを知った地元の人々は、笠冠地蔵を建立しました。

元は月見ヶ丘の中腹にありましたが、昭和36年に道路拡張工事で山の一部が削られたため、修善寺橋の袂に移されました。

幽閉されていたころの頼家は、修禅寺の山を下り、狩野川のほとりの月見ヶ丘で月を眺めてその憂さを晴らしたり、里の子どもと遊びながら、鎌倉に残した息子・一幡に思いを馳せていたといいます。

23歳の若さで無残に暗殺されたことを哀れんだ里の人たちは浄財を集め、月見ヶ丘に地蔵を建立しました。

頼家は、里の子ども達を大変かわいがった将軍であったことから『愛童将軍地蔵』と呼ばれています。

1_20260813123601

修善寺橋
Photo_20260813123601

2_20260813123601

3_20260813123601

月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊
ここより二百メートル下った狩野川沿いに月見ヶ丘と呼ばれる丘がある。
この丘は、建仁ニ年(一ニ〇三)に鎌倉府ニ代将軍源賴家公が、北條氏の政略により修善寺に幽閉されていた時、幽棲の寂しさを慰める為いつもここで月を眺めては鎌倉を偲び、この里子達と遊んでは我が子を思ったという。
丘の上のわずかな平地は、八幡神祠と保倉神の小さな石の祠が今に残っている。又丘の中腹には非業の最後(期)を遂げた頼家公の冥福を祈り、里人による愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地蔵が建立されていたが、昭和三十六年の道路拡巾工事により月見ヶ丘が削られて修善寺橋際に移転された。
地蔵尊の縁日は八月ニ十四日で、この日は地元老人クラブにより祭礼が催され、参拝者には、家内安全のお礼と手づくりのだんごが渡される。又近くの広場では子供角力大会や盆踊り大会も開催される。

4_20260813123601

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 

偉人・歴史人物ランキング
偉人・歴史人物ランキング

«修善寺の旅(19)横瀬八幡神社(2)北条政子ゆかりの孔門石

2026年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

無料ブログはココログ