源頼朝布陣伝承地(1)紅葉寺と呼ばれる金剛寺

今から5年前のことですが、東京都北区滝野川の源頼朝布陣伝承地を訪ねました。
秋は紅葉の名所として「紅葉寺」として知られている金剛寺は、源頼朝が伊豆で挙兵した後、隅田川を渡って武蔵国へ攻め入る際、陣を張った場所といわれています。
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寺伝によると、弘法大師・空海がこの地を遊歴し自ら不動明王像を彫ったと言われている。 この不動像は現在当寺院の本尊になっているものである。
その後、平安時代末期・源頼朝の時代に源頼朝自身が当地に布陣を張り、堂宇を建立また田園を寄進したと伝えられている。
その後、荒廃したが戦国時代に天文年間に阿闍梨宥印という僧が再興し、真言宗の寺院にしたと言われている。
当寺院一帯は江戸時代から紅葉の名所として知られていたことから、当寺院は紅葉寺の別称でも知られている。
また、当寺院付近は豊島氏の支族滝野川氏の居館である滝野川城跡であるとも言われ、滝野川の歴史を知る上でも価値があるものとされている。(Wikipediaより)
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治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向い、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。
この途次(とじ)の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓(かえで)があり、深山幽谷(しんざんゆうこく)の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。
金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(北区飛鳥山博物館 文化財説明板より)

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俊寛の碑

鹿児島市中町の西本願寺別院近くのビルに囲まれたある一角に「俊寛の碑」の石碑があります。
 
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ここは、俊寛が鬼界島に流されるときに船出した場所といわれています。
 
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明治31(1898)年頃、ここが埋めたてられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていましたそうです。
 
俊寛は、後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、安元3年(1177年)鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた藤原成親西光らの平氏打倒の陰謀に加わりました。(鹿ケ谷の陰謀
 
しかし、多田行綱の密告により陰謀が露見。
藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。
 
三年後、二人は帰ることを許されましたが、俊寛だけは許しが出なかったため、そのまま島に残り、亡くなりました。
 
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源義家ゆかりの円通寺

東京都荒川区南千住の円通寺
 
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寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。
 
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円通寺サイトによると、

当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚(首塚)を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。
 
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首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」が刻んである七重の石塔

石造七重の塔の銘に(現存する荒川区最古の石文)

「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」

とあり、別の面に当寺の由緒が刻んである。 
 
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