2024年10月 1日 (火)

寒川を巡る旅(2)梶原景時館跡

自転車を借りて最初に向かったのは、一之宮地区にある梶原景時館跡です

1_20241001120501

正治元年(1199年)正月に源頼朝が死去すると、梶原景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用されました。


2_20241001120501

その後、頼家の失政を理由に政務が停止され、十三人の合議制が置かれると、景時もこれに名を連ねました。

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光の言葉を頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めたたことにより、御家人たちの反感を買い、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出されたました。頼家は景時に弁解を求めましたが、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いていきました。その館がこの一宮館とされ、館の西側には城之下(じょうのした)という地名も残されています。

景時の本宅は鎌倉にありましたが、日頃の情報収集や鎌倉の非常時に守りを固める意味もあり、相模国一之宮(寒川町)にも館を築いていたそうです。

館址に建つ一之宮天満宮
3_20241001120501


4_20241001120501

景時は短歌をたしなみ、里人はその風雅を称え、館の一部と伝わるこの場所に天満宮を創建したと言われています。

5_20241001120501

梶原景時館跡

梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。

平成21年3月
寒川町教育委員会


天満宮遺跡碑
6_20241001120501


こんな公園になっています。

7_20241001120501

なお、2001年に行われた発掘調査では、館の堀跡らしき遺構が確認されたものの、直接梶原氏に関わるものかはわからず、今後の調査研究の対象とされているそうです。x

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2024年9月22日 (日)

寒川を巡る旅(1)寒川町観光協会

「鎌倉殿の13人」が放送された年、寒川を訪ねて来ました。

寒川町(さむかわまち)は、神奈川県の湘南地域北部に位置しています。

相模線の寒川駅で下車し、北口にある寒川町観光協会へ。

1_20240922104501

梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂のキャラクターのパネルがお出迎え!

2_20240922104501

3_20240922104501

中にはグッズやお土産物がいっぱい!

4_20240922104501

こちらで、梶原景時に関する資料やマップを収集。

5_20240922104501

スタッフの方に回りやすいルートを教えていただき、レンタサイクルをお借りして、寒川町をまわってきました。

この時は「鎌倉殿の13人」ポストカードまでいただきましたよ!

6_20240922104501

さあ、旅のスタートです!

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2024年9月12日 (木)

鎌倉坂ノ下の御霊神社

鎌倉坂下の御霊神社は、平安時代後期に建立されたと推定されています。

1_20240912093601

もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。

2_20240912093601

その後、後三年の役で活躍した梶原景時の先祖・鎌倉権五郎景政が祭られ、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードでは、左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したといわれています。その伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされています。(Wikipediaより)

面をかぶった男達が練り歩く9月18日の例祭の面掛行列(めんかけぎょうれつ)は、源頼朝が由来との説があります。

鳥居の目の前を江ノ電が通ることでも有名な神社で、地元では「権五郎さま」と呼び親しまれています。

3_20240912093601

4_20240912093601

2021年5月から御霊神社の境内は、撮影禁止となっているそうなので、鳥居前からの撮影のみです。

5_20240912093601

神社の境内を撮影禁止とは初めて見ました。

何かモラルに反することをした人がいたのでしょうか。

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

«梶原の御霊神社

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

無料ブログはココログ