高野山を訪ねて(25)佐竹義重の墓

佐竹義重の墓
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佐竹氏の家系は、清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族です。
平安時代の後期には、佐竹氏は常陸北部七郡を支配し、常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていました。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸の有力な豪族としての地位を確立。
治承・寿永の乱では、佐竹氏は平家にくみしたために源頼朝によって所領を没収されますが、後に頼朝に従って奥州合戦に加わり、その際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と紛らわしいとの理由で、扇を白旗の上に付けるよう命じられました。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになります。
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鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになります。
 
佐竹 義重
佐竹 義重(さたけ よししげ)は、鎌倉時代の武将で、常陸佐竹氏4代当主。3代当主佐竹秀義の子で、5代当主佐竹長義の父。
父や弟とともに承久の乱で活躍するなど、鎌倉幕府に忠実に仕えることによって、御家人としての佐竹氏の地位の保全・向上に務めた。次男の義直(義尚)と三男の義澄はと四男の義高(義隆)と六男の義綱は建長年間に分家し、それぞれ額田氏・真崎氏・岡田氏・岡部氏と称して庶家を興して、南北朝時代以降の佐竹氏の躍進の基礎となった。
鎌倉時代の佐竹氏は義重、長義(1207年 - 1272年)、義胤(1227年 - 1278年)、行義(1263年 - 1305年)、貞義と続いて、有力氏族の大掾氏などと婚姻関係を通して御家人としての地位を向上させたと伝わる。(Wikipediaより)

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高野山を訪ねて(24)奥之院 法然上人墓所

法然上人は、長承2年(1133)4月7日、美作国の押領使・漆間時国の子として生まれ、幼名を勢至丸といいました。
 
9歳の時、父は夜討ちにあい非業の最期を遂げますが、「恨みを恨みではらしていくと、人の世に恨みのなくなるときはない。出家して誰もが救われる仏の道を求めよ」との父の遺言に従い、勢至丸は比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。
当時の仏教は、厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流でしたが、そうした仏教に疑問を抱いた法然上人は、長い修行の末、専修念仏の教えを見出し、浄土宗を開きました。(法然上人二十五霊場HP参照)
 
洛東吉水に草庵を結んで布教し、信者の増加に伴って迫害され、一時讚岐に流されたが、後に許されて京に戻り、東山で入寂。
勅諡号(ちょくしごう)は円光大師。
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高野山を訪ねて(23)奥之院 芭蕉の句碑 

松尾芭蕉は貞享5年(1688)、両親の供養ため、高野山を訪れた際、奥之院の参道で、
「キジの鳴き声を聞いていると、しきりに父母が恋しいと鳴いているように聞こえる」と詠んだと伝えられ、
父母のしきりにこひし雉子(キジ)の声」と刻まれた句碑が建てられています。
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この句碑は、安永4年(1775)に建立され、文字は池大雅によるものだそうです。

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