2021年11月24日 (水)

平景清ゆかりの景清社

名古屋の熱田神宮を左手に歩いて行くと、ひつまぶしで有名な蓬莱本店陣屋があります。

その近くにある景清社

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景清社(かげきよしゃ)

景清は平家の侍大将忠清の次子で、腕力に優れていた。

平家没落後、縁あって熱田の地に隠れ住んだといわれる。
謡曲「景清」では「尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設く」とうたわれている。

後年、景清は眼病を患い、失明したという伝説から、この景清社は、眼病に霊験があるとして信仰が篤い。

 

景清について

平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。

平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれるが異説もある。

「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。

実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、各地に様々な伝説が残されているが、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ない。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

『吾妻鏡』の記述によれば、景清には兄がいて、上総五郎兵衛尉忠光といい、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと土工にまぎれこむも、怪しまれて捕まっている。(Wikipediaより)

 

大河ドラマでは、景清の父が伊藤忠清として登場しました。


愛知県にはこの他にも景清伝説の地があるそうなので、また機会をみて訪ねてみようと思います。

 

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2021年11月16日 (火)

景清爪形観音

数年前の12月初旬、まだ紅葉が残る清水寺を訪ねました。

 

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何度も訪ねているところですが、今回は今まで見逃していた石灯籠を目指します。

 

景清爪形観音は、清水寺の随求堂の前に立つ石灯籠の火袋の中にある小観音像です。

 

三重塔の裏側に当たります。

 

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景清は、平氏の侍大将で平景清とも呼ばれていますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいい、「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であったそうです。

大河ドラマでは、伊藤景清の名が使われていましたね。

景清は、壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれていますが、異説もあります。

 

景清爪形観音に伝わるのは、景清は、源頼朝の命を狙って、清水寺に潜んでましたが、失敗し捕えられ、「源氏の世は見られぬ」と自らの目玉を刳り抜き清水寺に納めたという伝説です。


また、景清は、謡曲や歌舞伎、浄瑠璃にも登場します。

 

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この悪七兵衛観音は、景清が爪で刻んだと伝えられています。

 

細長い穴が二つ開いていて、中に小さな石仏が納められているそうですが、覗いても見えませんでした。

 

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2021年11月 8日 (月)

「岩淵の渡船場跡」を訪ねて(2)

日光御成道の最初の宿場町・岩淵宿から、川口宿に向かうための渡船場があり、奥州との交通の拠点として古くから利用されていました。

義経記」によると、源義経は川口からこの渡しを渡り、岩淵本宿を通り板橋へ抜けたといいます。

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岩淵の渡船場跡

 この辺りに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場(とせんば)がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。

渡船場は、奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。

 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ65(117m)、幅3(5.4m)です。

一般の渡船場は、人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどだそうです。

 渡船場は、明治以降も利用され、明治38(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。

平成282月  東京都北区教育委員会

 

歌川広重が描いた岩淵の渡船場
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