源満仲(多田満仲)を祀る多田神社

東京都中野区南台に鎮座する多田神社は、源頼光や頼信の父である多田源氏の祖・源満仲(多田満仲)を御祭神とした神社です。
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社伝によれば、「頼義、義家の父子二公は前九年後三年の両役に大軍を率いて、奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられてきたということが「武蔵名勝図会」に記されている。」といいます。
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多田稲荷神社
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御祭神:宇迦之御魂大神・保食命(うかのみたまのおおかみ・うけもちのみこと)
多田神社の鬼門を守り、衣食住という日常生活を守護される神である。江戸時代には多田権現稲荷合社として祀られていた。
三社合祀 榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社
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榛名神社
御祭神:火産霊神・埴山毘売命(ほむすびのかみ・はにやまひめのみこと)
かまど(台所)とご不浄(お手洗い)を守る
御嶽神社
主神:櫛真知命(くしまちのみこと)
配神:大己貴命・少彦名命(おおむなむちのみこと・すくなびこなのみこと)
火災・盗難除けの神として信仰が厚い
阿夫利神社
御祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)雨降山とも呼ばれ、雨乞いの神である。
(多田神社HPより)

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源頼光、源頼政ゆかりの赤羽八幡神社

赤羽八幡神社は、東京都北区赤羽台にある神社で、岩淵郷近隣5ヶ村(現在の赤羽地区)の総鎮守とされています。
784年(延暦3)に坂上田村麻呂が当地に陣を張り、3柱を勧請したことにより創建されたと伝えられています。
その後源頼光源頼政、太田道灌と太田一族により再興されました。
江戸時代には、赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵郷の総鎮守とされました。
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この急な坂道を登っていきます。
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この階段を上っても行けます。
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どちらにしても急な参道です(;゚ロ゚)
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八幡太郎・源義家ゆかりの平塚神社

東京都北区上中里に鎮座する平塚神社は、源義家源義綱源義光を祀る神社です。
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御祭神
八幡太郎 源義家命
源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号されました。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上されました。
賀茂次郎 源義綱命 (かもじろうみなもとのよしつなのみこと)
義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号されました。
新羅三郎 源義光命(しんらさぶろうみなもとのよしみつのみこと)
義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号されました。
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
 徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。
(平塚神社の略縁起より)
神社に伝わる『平塚明神并別当城官寺縁起絵巻』によれば、かつてここに豊嶋郡の郡衙があった。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築てたと伝わる。平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義光(賀茂次郎)、義綱(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされる。
神社は豊島氏がこの源氏三兄弟の徳を慕って三人の逗留地に社を営んで「平塚三所大明神」とし、影像を奉祀し鎮守としたことが起源とされている。実際に逗留や甲冑の下賜があったかは確実ではないが、隣接地からは当時の奥州に通ずる道の跡も発見されている。豊島氏は鎌倉時代にかけて西の宇多氏や毛呂氏と結んで本拠を石神井に移して上杉氏と対立、室町時代になり豊島本宗家は上杉臣下の太田道灌にこの平塚城で滅ぼされた。
江戸時代、平塚郷の無官の盲人であった山川城官貞久が、平塚明神に出世を祈願して江戸に出たところ、検校の地位を得て将軍徳川家光の近習となった。またのちに山川は家光の病気平癒を祈願したところ直ちに病気は快癒した。山川は感謝して平塚明神社を修復し、事実を知った家光が寛永17年(1640年)、50石の朱印地を明神に寄進した。新規に朱印が下賜されるのは当時の一般諸社寺政策から見てきわめて異例であり、幕府から特別な崇敬がささげられていたことがしれる。以後、歴代将軍は同様の額を安堵している。
(Wikipediaより)
境内社には、菅原神社、大門先・元稲荷神社、御料稲荷神社、石室神社があります。
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