修善寺の旅(4)源範頼の墓
源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。
その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。
修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。
現在の範頼墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。
範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。
治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、 範頼も背くようになると疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝え られ、 悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。
範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、 日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。
神奈川県横須賀市にある追浜という地名の由来は鎌倉方から追われた範頼がここに上陸した為と言われておりその際に現地の者たちに匿ってもらった礼に自分の蒲の字を与え蒲谷と名乗らせたという言い伝えがある。
このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には、範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。
また伊予国の上吾川(現愛媛県伊予市)の称名寺と隣接する鎌倉神社にはこの地へ逃れてきたとされる範頼の伝説と墓所が存在している。(Wikipediaより)
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