2025年3月20日 (木)

法観寺(2)巴御前ゆかりの巴之松

木曽義仲の首塚の横に、巴御前ゆかりの巴之松があります。

1_20250308115401

2_20250308115401

これは、義仲の命日にあたる1月20日に、巴御前の最期の地と伝えられる富山から巴御前ゆかりの松の苗木が植樹されたものだそうです。

巴御前
Photo_20250308115401

巴御前

源義仲の乳父中原兼遠の娘で,木曾四天王といわれた樋口兼光・今井兼平兄弟の妹。武勇をもって知られ,義仲に従って合戦に参加したが,1184年(元暦1)正月,義仲が敗死すると信濃に帰った。《源平盛衰記》によれば,源頼朝に召喚されて鎌倉に参上し,斬首されるところを和田義盛の請により免れ,その妻となり,朝比奈三郎義秀を生んだ。
和田合戦で義盛・義秀が討たれると,越中国石黒に行き,出家して91歳まで生きたという。(コトバンクより)

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2025年3月 8日 (土)

法観寺(1)木曽義仲の首塚

京のシンボルともいえる五重塔の八坂の塔は、聖徳太子が創建したという法観寺の境内に立っています。

Photo_20250308113901

その境内には木曽義仲の首塚と伝えられる石塔があります。

Photo_20250308113902

義仲の首は六条河原に晒された後、この法観寺の境内に葬られたといいます。

2_20250308113901

木曽義仲公 首塚

源義賢の二男。
父を源義平に殺されたのち木曽の中原兼遠に養育される。
1180年、以仁王の令旨を奉じて挙兵、平氏の軍を倶利伽羅峠に破り、叔父行平と呼応して、北陸道から入京。
征夷大将軍となり源頼朝・平氏と全国を三分したが、後白河法皇を諌めようとして衝突。
範頼、義経の大軍に破れて近江粟津で敗死する。
その首は家臣によりこの八坂郷に手厚く葬られた。

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2025年2月24日 (月)

土佐坊昌俊邸跡と堀川夜討

鎌倉の小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。

Photo_20250224113601

源頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を討つべく御家人達を召集したところ、名乗り出る者がおらず、土佐坊昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。

頼朝から京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと伝えられています。

昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、京の義経の館である六条室町亭を襲撃(堀川夜討)。

Night_attack_at_horikawa
「文治元年九月十七日六條堀川夜討之圖」

義経の家人達は出払っていて手薄でしたが、義経は佐藤忠信らを伴い自ら応戦、後に源行家の軍勢も義経に加わりました。

結局、義経暗殺は失敗に終わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込みましたが義経の郎党に捕らえられ、2家人と共に六条河原で処刑されました。

しかし、これには異説もあり、以前、義経の父・義朝に仕えていた昌俊を、義経は殺すことができず逃がしたともいいます。


義経は襲撃翌日、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始しました。

Photo_20250224113602

土佐坊昌俊を源義経に引き渡す武蔵坊弁慶(『堀川夜討之図浮絵二枚続』より)x

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

«妙本寺(4)源頼家の娘・源媄子の墓

2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

カテゴリー

無料ブログはココログ