2023年3月12日 (日)

長篠荏柄天神社

新城市に鎮座する長篠荏柄天神社の本社は、源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になりました。

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時間の都合で、本殿までは行けませんでしたが、参道と駒札のみ撮影してきました。

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新城市指定文化財

●種別・名称(建造物)荏柄天神社本殿

●所在地 新城市長篠字碁石
●由来

本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。

●構造

一間社流造

こけら萱 正面唐破風付

裄行:1.39m 梁間:1.39m 新城市教育委員会

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荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。

それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。

医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成4年11月

 

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本殿のあるところは、天神山と呼ばれ、長篠の戦いでは、武田軍の陣地になりました。

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天神山陣地 二千人
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。

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2023年2月23日 (木)

六代御前の墓

神奈川県逗子市桜山にある平清盛の曾孫にあたる六代御前(平高清)の墓を訪ねました。

田越川沿い建つ「六代御前最後之故址」の碑
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六代の父は平維盛。母は藤原成親の娘・新大納言局。
幼名は平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因んで六代と名づけられました。

六代は、平家一門の滅亡後、源氏の探索により捕らえられますが、文覚の尽力により助命され出家。
『平家物語』諸本では、12歳で捕らえられ、源頼朝の死後、文覚が流罪にされた際に再び捕らえられ、処刑されたとされています。

この六代御前の墓については、諸説あるので、いくつか拾ってみました。


平家滅亡後の文治元年(1185年)、菖蒲谷に潜んでいたところを北条時政によって捕縛され、殺害されるところでしたが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文覚に預けられて出家し妙覚(みょうかく)と名乗りました。
その後、時の将軍頼家に斬首に処せられ、斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池の周囲という説もあれば、もっと上流域のあたりだという説、あるいは六浦のあたりであるとする説などとともに諸説あります。
遺体がどこに葬られたかは定かではありません。また、この墓は江戸時代、六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る水戸藩士斎藤仁左衛門によって建てられた供養塚です。
(逗子市観光協会)

『平家物語』巻十二によると,平氏滅亡のとき六代は 12歳で,母や妹とともに隠れていたが密告されて北条時政に捕えられ,
駿河国千本松原で斬られるところを,文覚の命乞いによって助かり,出家して高雄の奥で修行。文覚の死後再び捕えられ,30歳で相模国で斬られた。(コトバンクより)

六代御前の墓
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六代御前之松
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 六代御前は平維盛の嫡男で、文治元年(1185)平家滅亡の時、捕らえられて処刑されるところ、文覚上人のお陰で助けられました。
その後文覚の弟子となり、名も三位の禅師と改め、平安の日々を送りましたが、正治元年(1199)源頼朝が亡くなると、ふたたび捕らえられることになりました。
 平家物語には、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。頭をば剃ったりとも、心をばよも剃らじとて、鎌倉殿より頻に申されけば、安判官資兼に仰召捕って、関東へぞ下さりける。駿河国住人岡辺権守康綱に仰て、田越川にて斬られてんげり。」と記されています。
桜山柳作のこの岡が六代御前の墓とされています。
(逗子市教育委員会)

 

 六代御前が、田越川の畔で斬られたという物語の出所は、「平家物語」の「安判官資兼に仰て召捕って関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて切られてンげり。」という一節の記述で、現在入手できる唯一の拠り所であり、他にこれを求めることはできない。

「平家物語」にも、異本がいろいろあり、六代の処刑地について、長門本や延慶本なは「千代松原」とし、中印本は「六浦坂」と、まちまちである。ほかに保暦間記は、「芝という所」としている。

 このように、いろいろな説があり、「六代御前の墓」についても、確実なところはまだわかっていない。ただ、「新編相模国風土記稿」や「新編鎌倉志」等を初めとして。多くの「史跡・名勝案内書」の類が、田越川の畔、逗子市桜山字柳作にある塚を、「六代御前の墓」として紹介している。
また土地の伝承も、この塚が「六代御前の墓」であることを、代々引き継ぎ、江戸の昔から大切に祀って来ている。
(六代御前史跡保存会)

 

JR逗子駅や京急新逗子駅から田越川沿いに徒歩約15分、バスに乗れば、バス停「六代御前の墓」すぐ前です。

 

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2023年2月14日 (火)

平盛久ゆかりの主馬盛久之頸座碑

鎌倉の長谷寺からほど近い由比ヶ浜大通り沿いにある平盛久ゆかりの主馬盛久之頸座碑

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平盛久
平盛国の子。元暦2年(1185)壇ノ浦の戦いで平家が敗れたあと,京都で捕らえられ鎌倉へおくられる。
由比ケ浜で斬られようとしたが,日ごろ信心していた清水観音の加護ですくわれたという。通称は主馬八郎。
(コトバンクより)

※主馬(しゅめ)とは、馬や馬具の管理をする役職

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盛久は京都清水寺に千手観音像を奉納し、千日参りの祈願をしていた。由比ヶ浜で斬首されそうになった際には刀が折れて命拾いしたという。
また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったということで、源頼朝は盛久を許し、さらに領地を与えたと伝わる
(Wikipediaより)


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盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ
平家累代ノ家人ナリ
然ルニ平家滅亡ノ後
京都ニ潜ミ年来ノ宿願トテ清水寺ニ参詣ノ帰途
北条時政人ヲシテ召捕ヘシメ
鎌倉ニ護送シ
文治二六月此地ニ於テ斬罪ニ処セラレントセシニ奇瑞アリ
宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシトイフ
昭和十年三月 鎌倉町青年團建

盛久は、主馬入道盛国の子であり、平家に代々仕えてきました。
平家滅亡後は、京都に潜んでいましたが、長年の願いであった清水寺参詣の帰り道に北条時政の部下に捕まり、鎌倉に護送されました。
文治2年(1186年)6月、この地にて処刑される時に不思議なことが起こったため、助命され、源頼朝から領地まで与えられました。


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   謡曲「盛久」と由比ヶ浜

 平家の武将・平盛久は、源氏に破れ捕らえられて鎌倉に送られ、この由比ヶ浜の地で首を切られることになりました。
盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け処刑前夜に霊夢を見ました。
 そしていざ処刑の時、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を取り落とし、太刀も二つに折れてしまいました。
これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢を見た、観世音のお告げである」と言って助命し、盛久は所望されて舞を舞うのでした。
   謡曲史跡保存会

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