2024年11月 7日 (木)

沼津の大泉寺(2)阿野全成の首掛け松

この大泉寺には阿野全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。

1_20241107121501

また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。

大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。

4_20241107121501

またその切り株は、お寺で保存されています。

3_20241107121501

ご住職が見せてくださいました😃

5_20241029133401

大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2024年10月30日 (水)

沼津の大泉寺(1)阿野全成の墓

阿野全成の幼名は今若

7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。

兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。

その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。

頼朝の死後、嫡男の源頼家が将軍職を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と組んで実朝を擁立し、頼家一派と対立。

建仁3年(1203年)5月19日、頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。享年51。

さらに7月16日には三男の阿野頼全(播磨坊頼全)が京都の東山延年寺で源仲章によって殺害されました。

全成の首は阿野庄全成館に届けられたといいます。

四男の阿野時元はこの時、外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲しましたが、建保7年(1219年)1月、従兄弟に当たる第3代将軍・源実朝が殺害されると、将軍の座を望んで翌月(承久元年2月11日)挙兵。しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られました。
(『承久記』によると、最期は自害であったと。)

全成・時元の墓は、静岡県沼津市東井出の大泉寺にあります。

1_20241029133401

阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建て、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立。

全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、全成と涙ながらに語り合ったといわれています。

2_20241029133401

3_20241029133401

4_20241029133401

伝阿野全成・時元墓 
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。

墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
  沼津市教育委員会

5_20241029133401

大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

2024年10月24日 (木)

寒川を巡る旅(5)寒川神社

寒川町に鎮座する寒川神社は、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという関東地方における著名な神社の一つであり、初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いそうです。

鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされ、源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等がありました。

以後も北条氏から崇敬され、 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康より社領を認められました。

また、武田信玄が小田原攻めの途中に当社を参拝して戦勝を祈願し、自身の纏っていた兜と太刀を奉納しています。

神池橋、三の鳥居
1_20241024101401


2_20241024101401

寒川神社
御祭神  寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと )
        二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。
例祭日  九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)
由 緒
  当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上
  品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史
  を有しています。
  以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に
  神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし
  た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心
  をなしていました。
  中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田
  信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される
  など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から
  の崇敬は極めて篤いものがありました。
  明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において
  国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。(駒札より一部抜粋)


神門
3_20241024101401


4_20241024101401

御社殿
5_20241024101401


客殿
6_20241024101401


南門
7_20241024101401

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

«寒川を巡る旅(4)梶原景季のレリーフ

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

無料ブログはココログ