高野山を訪ねて(13)金剛三昧院 表門~六本杉

金剛三昧院は、建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝の菩提を弔うために創建された寺で、始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である栄西も招かれ、開山第一世としました。
承久元年(1219年)、源実朝の菩提を弔うために禅定院を改築し、金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰されました。
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立。
その後、境内には勧学院が建てられ、高野版の摺本を用いた南山教学の中心地として栄えました。
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表門
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文政年間(江戸時代後期)に建立されたもので、山門の言葉として「毘張尊」(びちょうそん)と書かれています。
門の中にある鐘楼は重要文化財指定されているもので、1207~1210年の銘が書かれていることから、現存する鐘楼では日本で16番目に古いものと言われています。
 
六本杉(別名毘張杉)
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樹齢400年とも言われる杉の大木。
根元のほうは、3本の木のように見えますが、上に行くと6本に分かれていることから、六本杉と呼ばれています。また別名の毘張杉とは、当院の守り神である毘張尊師と呼ばれる天狗様がこの杉の木に舞い降りてきたことに由来しています。
(金剛三昧院HP参照)

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高野山を訪ねて(12)鳥羽天皇皇后陵

不動院の参道を進んでいくと、鳥羽天皇皇后陵が左手にあります。
 
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不動院に紺金泥阿弥陀経、阿弥陀三尊を治められた美福門院(藤原得子)のご遺命によりこちらに埋葬され、丸山御陵と称して以来、当院が供養奉仕をしているのだそうです。
 
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得子は平治の乱の収束を見届けた後、永暦元年(1160年)11月23日、44歳にして白河の金剛勝院御所において崩御。遺令により遺骨は高野山に納められた。この時、女人禁制である高野山ではその妥当性が問題になった。(Wikipediaより)
 
不動院は、不動明王を本尊とし、延喜7年(906年)済高大僧正が西谷に開基した12ヶ院のひとつです。
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山階宮家菩提寺としても知られています。
 
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こちらの宿坊は、特に外国人観光客から人気があるそうですよ。

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高野山を訪ねて(11)西室院の源氏三代の墓

高野山の西室院には、頼朝の三男・貞暁が建てた源家三代の墓といわれる三基の五輪塔があります。

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江戸時代の絵図には4基の五輪塔が描かれており、「頼朝公」「頼家公」「実朝公」「二位殿」と源氏三代に加え、北条政子の名前もあるそうです。 

五輪塔は、以前は山門前にあったそうですが、現在は庭園多聞苑あります

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貞暁(じょうぎょう/ていぎょう、文治2226日(1186318日) - 寛喜3222日(1231327日)) は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。源頼朝の三男で第4子(庶子)。母は伊達氏の祖と言われる常陸入道念西の娘・大進局。異母兄頼家の4歳年下、異母弟実朝より6歳年長になる。通称を鎌倉法印といった。

母・大進局は大倉御所に出仕する侍女であったが、頼朝の寵愛を受け懐妊する。しかし頼朝の正室・北条政子がこれに気づいたため、その怒りを畏れた頼朝によって遠ざけられ、家臣の長門景遠の宅にて男児を出産する。政子の嫉妬を恐れて出産の儀式は省略され、景遠は母子を匿った事を知った政子の勘気を蒙り、子を連れて逃げ深沢の辺りに隠居した。その後も政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられる。異母弟の実朝が生まれる3ヶ月前の建久3年(1192年)519日、7歳の時に仁和寺の法眼隆暁(一条能保の養子)に弟子入りして出家するため上洛する。頼朝は出発の夜、密かに息子の元を訪れ、太刀を与えている。

同年616日、頼朝の義弟一条能保に付き添われて仁和寺の勝宝院に入室した。法名を能寛と名乗り、更に修行を重ねた後、法名を貞暁と改め、高野山に登ってより一層俗界から遠ざかった。これ以降、源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、世間と隔絶した中で一人修行に励み、人々の尊崇を集めた。建保7年(1219年)に異母弟源実朝を暗殺した甥の公暁は、貞暁の受法の弟子であった。

その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なった。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である3代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっている。

一説によると、実朝の死後その野心を政子に疑われ、4代将軍就任を打診されたが、片眼をえぐり出してこれを拒否したと伝えられる。政子は貞暁の潔さに落涙し、二度と彼を疑うことがなかったという。

寛喜3年(1231年)、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)。これにより、頼朝の男系男子の子孫は断絶した(男系女子も3年後の竹御所死去により途絶え、頼朝の直系子孫は完全に断絶)。なお、『尊卑分脈』は貞暁と能寛を別人としているが、これは誤りである。(Wikipediaより)

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