2025年2月 1日 (土)

妙本寺(3)若狭局を祀る蛇苦止堂

妙本寺の方丈門のところに境内の案内図があります。

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ここから門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段があり、これを上って行くと、蛇苦止堂というお堂に辿り着きます。

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比企の乱で、井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され、蛇苦止堂(じゃくしどう)に祀られたといいます。

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比企の乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。讃岐局の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。それ以来、今も毎月1日(正月は2日)に例祭をつとめ、信徒と共に法華経読誦唱題が続けられています。(妙本寺HPより)

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若狭局
父能員は初代将軍源頼朝の乳母・比企尼の甥であり、その縁故によって頼朝の嫡男・頼家の乳母父となった。頼家の妻妾となった若狭局は建久9年(1198年)、頼家が17歳の時に長子一幡を生む。

一幡が6歳になった建仁3年(1203年)8月、病となった頼家が危篤状態に陥り、その家督相続を巡り若狭局の一族比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏との対立による比企能員の変が起こる。9月2日、能員が北条時政によって謀殺され、知らせを受けて一幡の屋敷である小御所に立て籠もった比企一族は北条義時率いる大軍に攻められ、屋敷に火を放って自害し、一族は滅亡した。『吾妻鏡』では一幡と若狭局もその時焼死したとしている。(Wikipediaより)

蛇苦止ノ井は、若狭局が身を投げた井戸とされています。

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2025年1月23日 (木)

妙本寺(2)比企一族の墓

妙本寺の境内には比企一族の墓一幡の袖塚があります。

比企一族の墓
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北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。

1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 

これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。

しかし、このことが時政の耳に入り、時政は能員を自宅に招き、殺害。

続いて北条氏は比企谷の比企一族の屋敷を襲撃。

一族は一幡を守ろうと防戦しまいたが、屋敷に火が放たれ、母とともに焼死、後で焼け跡から一幡の袖が見つかったといいます。

一幡はその時、わずか6歳でした。

しかし、一幡の死には諸説あり、一幡は母が抱いて逃げ延びたが、後に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという説も。

一幡の袖塚
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石碑に「源頼家卿嫡男一幡君」の文字が刻まれています。

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初代将軍源頼朝の嫡男頼家の長子として誕生。初孫誕生の翌年、祖父頼朝が死去し父頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった建仁3年(1203年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏が対立し、比企能員の変が起こる。

『愚管抄』によると、重病に陥った頼家は家督をすべて一幡に譲ろうとしたが、それでは一幡の外祖父比企能員の全盛となる事を恐れた北条時政が、能員を呼び出して謀殺し、頼家の弟で一幡の叔父である千幡を次期将軍に立てるべく都へ使者を送り、その間に比企一族は北条氏一派の率いる大軍に攻められて滅亡した。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。享年6。頼家の子女の中で最初の死亡者である。

鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職を譲り、時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職が譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と実朝の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。
(Wikipediaより)

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2025年1月11日 (土)

妙本寺(1)比企一族ゆかりの寺

鎌倉の妙本寺の立つこの辺りは比企が谷といい、鎌倉時代には比企能員比企尼をはじめとする比企一族が住んでいました。

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懐妊した北条政子は、比企の館に入り、万寿(後の源頼家)を出産。

比企一族と頼朝の絆は、さらに深まっていくのでした。

総門
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しかし、建仁3年(1203年)9月2日、2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされてしまいました。

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唯一、京都にいて難を逃れた比企能員(よしかず)の子・能本(よしもと)が、鎌倉で布教する日蓮上人に帰依し、日蓮と比企一族の菩提を弔うために、1260年、妙本寺を建立しました。

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この寺一帯の谷を比企ヶ谷(ひきがやつ)といい、源頼朝の重臣・比企能員(ひきよしかず)らの屋敷がありました。
比企一族は二代将軍・源頼家(みなもとよりいえ)の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢に、この地で滅ぼされています。(比企の乱)
その後、「比企の乱」から逃れていた比企能員(ひきよしかず)の末子、能本(よしもと)が日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。
これが妙本寺の始まりといわれています。
緑豊かな静かな境内には、四月から八月にかけて、桜・カイドウ、シャガ、ノウゼンカズラなどか鮮やかに彩ります。

祖師堂(そしどう)
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日蓮聖人(祖師)を祀るお堂。お堂内中央正面の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人をお祀りしています。この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところです。
「比企の尼」は、源頼朝の乳母であり、頼朝は開府後、武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせました。また、北条政子が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家が生まれたと伝えられています。

霊宝殿には日蓮ゆかりの寺宝が、霊宝塔には日蓮の御真骨が納められ、祖師堂には日蓮が安置されています。

日蓮上人の像
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