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2005年12月

2005年12月30日 (金)

法住寺(5)四十七士木像

山科に潜伏していた大石内蔵助は、法住寺の身代わり不動尊に詣でて、仇討の成功を祈願しました。また同士との連絡、会合の場所にもなっていたことから、木像が安置されることになりました。

2005年12月23日 (金)

法住寺(4)身代り不動明王像

法住寺は身代り不動明王像が有名で、信者の方からは「身代りさん」と呼ばれています。木曽義仲が御所に攻め入った時、当時の明雲大僧正が敵の矢に倒れ、法皇様は難を逃れることが出来ました。そのことから、ここのお不動様が災難から身代りとなって護ってくださると信じられています。

法住寺(3)後白河天皇法住寺陵

正門前には、法住寺殿蹟碑が、また法住寺の左側には後白河天皇法住寺殿陵への参道があります。明治維新に御陵と寺域が分割され、法住寺陵は宮内庁の管轄になりました。(私が行った日は土曜日だったため、参道に入ることが出来ませんでした。)13_b 14_b 18_b

2005年12月22日 (木)

法住寺(2)

現在の法住寺は、後白河天皇の御陵(法華堂)をお守りするために建てられました。

この法住寺殿は、天皇の年頭の挨拶が年々行われ、特に皇子の高倉天皇はよく行ったそうです。また、高倉天皇の中宮である平清盛の娘・平徳子(後の建礼門院)はこの御所から入内しました。後白河上皇は、清盛に法住寺殿域内に蓮華王院を造営することを命じ、1164年に本堂が落成しました。三十三間堂は後白河上皇の法住寺内の御堂であったわけです。1183年、清盛が亡くなってから2年後、木曽義仲に法住寺殿が襲われてからは、法皇は西洞院の六条殿に長講堂を建てて遷られました。しかし、この御殿も長講堂も1188年に焼失し、1192年、66歳で法皇は崩御されました。12_b 8b 10b 15b 16b

2005年12月21日 (水)

法住寺(1)

三十三間堂の東側にある法住寺に行ってきました。1161年、後白河天皇が法住寺に遷られ、木曽の義仲が攻め入るまでの23年間、院の御所となりました。1b 3_b 4_b

2005年12月20日 (火)

佐藤継信・忠信の塚

馬町の路地裏にある馬町十三重塔の旧所在地には、佐藤継信・忠信の墓の石碑が残っています。2b1b (佐藤継信・忠信の塚の石碑の横を入ったところに、墓の石碑があります。)

2005年12月19日 (月)

馬町十三重塔

三十三間堂前の京都国立博物館の庭に、「馬町十三重塔」という立派な石塔が二基立っています。これは、江戸時代、佐藤継信・忠信の墓と伝えられていました。(以前は馬町の路地裏にありました)昭和15年の解体修理の際、塔の中から仏像をなどが見つかったそうです。 b 2_1b 4b

2005年12月16日 (金)

粟田神社内 出世恵比寿神社

遮那王が奥州へ向かう際、ここに立ち寄って、源氏再興の祈願をしたことから、出世恵比寿神社または門出恵比寿神社と呼ばれるようになりました。粟田神社の境内にあります。_1b _2b _b

2005年12月15日 (木)

蹴上・義経大日如来

京都市東山区蹴上インクライン疎水公園内に義経大日如来があります。遮那王が奥州に向かう途中の出来事。平家の武者、美濃国の関原与一と従者の一行が、山科あたりを通りかかった時、武者の馬が蹴上た泥水が遮那王にかかってしまいました。馬上からの無礼な態度に激怒した遮那王は、9人の武者を斬り殺してしまいます。(蹴上の地名はこれが由来といわれています)その後、自分の行為を悔やみ、武者を弔う為に9体の地蔵を祀り、供養したといわれています。(供養したのは村人であったという説もあります)その9体のうちの1体が義経大日如来です。1b 2b3b 

2005年12月14日 (水)

屋島(12)高松平家物語歴史館

301体のろう人形で平家物語の名場面を再現しています。(一の谷の合戦、那須与一が扇の的を射るシーン、安徳帝入水など)

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2005年12月13日 (火)

屋島(11)義経号運行ルート

10:30サンポート高松(JR高松駅前)~高松平家物語歴史館~与一コース(源平や島合戦展望台、屋島寺・宝物館、獅子の霊厳、屋島山上水族館)または静コース(四国村、わらや)~源平屋台合戦史跡めぐり(洲崎寺、駒立岩、祈り岩)~15:00サンポート高松

私は「与一コース」を選び、屋島のボランティアガイドさんに案内していただきました。(このブログへ遊びに来てくださる「屋島のガイドさん」です。

2005年12月12日 (月)

屋島(10)洲崎寺 壁画

洲崎寺の壁には源平合戦の壁画や合戦の説明板がありました。

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2005年12月11日 (日)

屋島(9)洲崎寺 本堂

源平合戦の際、義経をかばって戦死した佐藤継信の遺体を、洲崎寺の本堂の扉に乗せて瓜生が丘まで運んだといわれている。

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2005年12月10日 (土)

屋島(8)駒立岩

那須与一が、扇の的に命中するように祈ったという岩で、潮が引くと姿を現します。私が行った時は、満潮時で水没していました。

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2005年12月 9日 (金)

屋島(7) 祈り岩

那須与一が、扇の的に命中するよう一心に祈った岩。土に半分埋もれています。

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2005年12月 8日 (木)

屋島(6)談古嶺

談古嶺からは、源平古戦場「檀の浦」、那須の与一の扇の的、義経の弓流し、平家軍の泊地の船隠しなどの史跡を一望できます。

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2005年12月 6日 (火)

屋島(5)獅子の霊厳展望台

源氏軍が笠を投げて勝鬨をあげたことから、素焼きのかわらけを海に向かって投げる「かわらけ投げ」が有名です。ここからは、高松市内、五色台、男木、女木の島々など美しい景色を目の当たりに出来ます。

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2005年12月 5日 (月)

屋島(4)屋島寺・蓑山大明神

佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸とともに日本三名狸と称される太三郎狸をまつる。その昔、弘法大師が屋島で道に迷い、蓑笠を着た老人に化けた太三郎狸に山上まで案内されたという。

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2005年12月 4日 (日)

屋島(3)屋島寺 

四国八十八ヶ所霊場第84番札所。奈良時代末に鑑真が開創したのが始まりとされ、弘法大師が現在地に伽羅を造営した。南面山千光院ともいわれ、真言宗御室派に属す。宝物館には、弁慶が勝利の餅をついたという「源氏の勝ち臼」、源平合戦を描いた屏風、源氏の白旗などが展示されている。本尊の千手観音座像は、本堂とともに国の重要文化財とされている。

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2005年12月 3日 (土)

屋島(2)血の池

元来は屋島寺の池で、瑠璃宝池という。源氏の兵士が合戦の後、この池で血刀を洗い、池の水が真っ赤に染まったということから別名、血の池と呼ばれている。

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2005年12月 2日 (金)

屋島(1)義経号

屋島の観光は、源平合戦周遊バス「義経号」で廻りました。JR高松駅バスターミナル前のサンポート高松を10:30に出発し、高松平家物語歴史館、屋島山上、源平屋島合戦史跡めぐりをし、15:00に解散のコースです。今回のようにあわただしい旅には大変便利でした。1b

2005年12月 1日 (木)

須磨浦公園(2)敦盛塚・平家一門の供養塔

須磨浦公園の西、国道沿いにある高さ4mの石造五輪塔で、敦盛の胴体が納められているという。北条時貞が平家一門の冥福を祈って建立したといわれている。

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