小督の遺品
清閑寺にあったといわれる小督の遺品・愛用の車琴、すずり箱、小督の髪の毛を織り込んで作った真言宗のお経である「光明真言」の掛け軸が、現在、下京区の平等寺に伝わっています。また、車琴は嵯峨野の寂光寺にもあるそうです。
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清閑寺にあったといわれる小督の遺品・愛用の車琴、すずり箱、小督の髪の毛を織り込んで作った真言宗のお経である「光明真言」の掛け軸が、現在、下京区の平等寺に伝わっています。また、車琴は嵯峨野の寂光寺にもあるそうです。
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小督に去られたこと、わずか3歳の安徳天皇(建礼門院との間に生まれた)に無理やり譲位させられたことなどの心痛から、高倉天皇は21歳の若さで崩御した。その後、小督は高倉天皇が眠る東山の天皇陵近くの庵で、天皇の墓守に殉じ、44歳で亡くなった。
東山の音羽山麓に高倉天皇陵があり、その近くの清閑寺に小督の供養塔があります。
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小督がいなくなったことに、高倉天皇は再び消沈しています。そこで、天皇は側近の源仲国に小督を探し出すように命じた。ある日、仲国は嵐山の亀山で聞き覚えのある琴の音に耳を傾けた。(小督は宮中一の琴の名手、仲国は笛の名手であり以前、合奏したことがあったのだ。)それは、小督の爪弾く「想夫恋」であった。仲国は無理やり小督を帝のもとに連れ戻します。その後、二人の間には娘が生まれるが、それを知った清盛は小督を出家させ、追放してしまった。
琴の音を聞いた小橋は、仲国駒止めの橋といわれ、明治時代になって琴きき橋が建てられました。琴きき橋の遺跡は、車折神社嵐山頓宮前にあります。
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小督には、冷泉大納言隆房という恋人がいましたが、天皇が相手では逆らうことが出来ませんでした。高倉天皇は、小督を寵愛し、彼女にのめり込んでいきました。しかし、このことは建礼門院と高倉天皇との子を望む清盛の怒りを買うことになります。しかも隆房は清盛の五女の婿でありました。小督は帝に迷惑がかかることを恐れ、嵯峨野に隠棲します。
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嵐山の渡月橋から亀山方面に少し歩いたところに小督塚があります。清盛の娘・建礼門院徳子は高倉天皇のもとへ入内しますが、高倉天皇は、中宮の世話をする女房のもとで働く葵前という女性を愛してしまいます。しかし、たちまち二人のことが宮中の噂になり、清盛を恐れた高倉天皇は、葵を退けました。一方、葵はしばらくして病死していまいます。高倉天皇は、このことで、毎日落ち込んだ日々を送るようになり、これを心配した建礼門院は、天皇を慰めるために、小督という女性を自ら天皇に引き会わせます。
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那智で入水したとされる維盛にはいくつかの生存説がある。まず一つ目は、奈良県吉野郡野迫川村である。一の谷の合戦後、維盛は、熊野別当湛増に平家の援助を頼みに行くが断られてしまう。その代わり、維盛を娘と結婚させ、彼を匿ってくれた。その後、頼朝の平家追討の追っ手の中、熊野山中を彷徨い、野迫川平に辿り着いた。そこで61歳の生涯を終えた。
吉野郡野迫川村の「平維盛歴史館」には、里人が建てた維盛塚、平家物語をテーマにした人形が展示されている資料館があります。
平維盛歴史館HP http://www.vill.nosegawa.nara.jp/kankou/taira1.htm
他にも、富士郡芝川町にも伝説が残っている。維盛は入水せずに、富士川の合戦で生き延びた多くの家来が住む稲子にやって来て、隠れ住んだ。西ヶ谷戸には、彼の墓や位牌があるという。
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維盛は、高野山にて出家、入道に導かれ熊野三山参詣の後、那智の沖にて入水することとなるが、妻子への想いが断ち切れない維盛は、なかなか入水に踏み切れない。しかし、入道の「還来穢国度人天」という言葉を聞いた途端、入水を決心し、入道の打ち鳴らす鐘の中、水の中へと消えて行った。「還来穢国度人天」とは、法事讃の一句で、極楽浄土に成仏した者は再びこの世に戻り、人天を済度することができるという。維盛は妻子と再び巡り会えることを信じて、命を絶ったのだろう。
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かつて維盛は、光源氏とも称されたほどの美男子で、宮中の女性の憧れの的であった。そんな維盛の変わり果てた姿に入道は驚いた。維盛は都落ちの際、一門のほとんどが妻子を伴ったのに対し、都に妻子を残してきたのだった。それは、家族を辛い目に遭わせたくないという気持ちから泣く泣くそうしたのであったが、周りの人々からは中傷され続けた。維盛は、入道に屋島を出た経緯、家族を今でも忘れられないと告げた。
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ある日、平清盛の孫で、平重盛の長男である平維盛が入道のもとを訪ねて来た。
維盛は、富士川の戦いで、水鳥の羽音に驚き、戦わずして頼朝軍に敗退。これには清盛の怒りを買い、武将としての評価を落とした。倶利伽羅峠でも、木曽義仲軍に敗退。三草の戦いでは義経に敗退。一の谷の戦いには参加できず、その後、病のため屋島に残っていた。頼朝と通じているなどと嫌疑をかけられ、平家の中での信用をなくす。そこへ、平家軍大敗、一門の多くが討たれたとの知らせを受け、ついに屋島から逃亡する。向かった先は父・重盛に仕えていた入道がいる高野山であった。
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横笛の死については、他の説もあります。「源平盛衰記」では、17歳の横笛は嵯峨野の大堰川に身を投げます。そのことを知った入道は大堰川に駆けつけます。彼女の遺体を火葬し、彼女の骨を自ら首にかけて、寺を供養して歩き、高野山の奥の院に卒塔婆を立てて、弔ったといわれています。
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阿浄はその鶯の亡骸を胎内に納めて、阿弥陀如来像を彫ります。この像は、鶯阿弥陀如来像として大円院の本尊となり、梅の木を鶯梅(おうばい)、井戸を鶯井(うぐいすい)と呼んで、大切にしているそうです。
滝口寺のお堂には、入道と横笛の木像が安置されています。この世では結ばれない二人でしたが、心は永遠に結ばれているのかもしれません。
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その後、入道は高野山・大円院の8代住職となり、阿浄と称しました。ある日、入道は、大円院の庭の梅の木に鶯がとまっているのに気がつきます。阿浄を見つめるようにさえずり、舞い上がった鶯は、急に弱々しくなり、井戸の中へと落ちていきました。阿浄は思わず「横笛」と叫び、井戸へ駆け寄ります。その鶯の姿が、入道には横笛に見えたのでした。
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入道は、横笛にまた歌を送り、
高野山 名をだしに知らで 憂きをよそなる 我身なりせば(入道)
横笛はそれに答えます。
やよや君 死すれば登る高野山 恋も菩提の種とこそなれ(横笛)
病が重くなった横笛は、生涯入道のことを想いながら、わずか19歳でこの世を去りました。天野の里の人々は、彼女を弔うために、庵のそばに塚を作りました。(横笛のお墓は、和歌山県かつらぎ町天野にあります。)
境内には入道と横笛の歌問答旧跡があります。奥にあるのが、横笛が自分の血で歌を書いたという石です。
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ある日、横笛は入道が高野山にいることを知ります。想いを捨てきれない横笛は、女人禁制の高野山にに一番近い天野の里へ移ります。しばらくして、入道もまたある僧から天野の里の横笛の話を聞き、彼女に歌を送ります。
そるまでは 恨みしかど梓弓 真の道に入るぞうれしき
それに対して、横笛は
そるとても 何か恨まん梓弓 引き止むべき心ならねば
と返しました。入道を想う横笛は、次第に病に侵されていきます。
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仏門に入った入道は、嵯峨の往生院(滝口」寺)で修行に励みました。横笛は、時頼のことを諦めきれず、入道に会うために、嵯峨野を訪ねます。ついに入道の居場所をつきとめますが、入道は自分の心が乱れないようにと、会うことを拒みました。嘆き悲しんだ横笛は、近くにあった石に指の血で歌を書き残しました。
山深み思い入りぬる芝の戸の まことの道に我れを導け
今度、横笛が訪ねて来たら心が動いてしまうかもしれないと思った入道は、嵯峨 から高野山へと移って行きます。
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祇王寺からさらに石段を奥に進むと滝口寺につきあたります。滝口寺は、武士の身分から仏門に入った滝口入道と、建礼門院の仕女・横笛の悲恋の舞台として知られています。平重盛に仕えていた斉藤時頼は、建礼門院に仕える身分の低い横笛に恋していました。しかし、時頼の父は、時頼を身分の高い女性を結ばせたかったので、横笛とのことを反対していました。時頼は、父にそむくこともできず、横笛との実らぬ恋に絶望し、仏門に入り、滝口入道となります。
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仏御前に追い出されることになった祇王は清盛邸の襖に涙ながらに歌を書き残しました。
萌え出づる枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき
(いずれは清盛に「飽きられる」と秋が掛けられています)
992年、源信が京都・伏見に建立した光明院が始まりです。その後、藤原頼道の子、橘俊綱が伏見の山荘に持仏堂として移し、阿弥陀如来と二十五菩薩像を安置し、即成院と称しました。後に明治時代初期に現在地に移りました。10月第三日曜に行われる二十五菩薩お練り供養が有名です。
お練り供養の様子は↓でご覧になれます。
屋島の合戦後の与一については諸説あります。
・頼朝の粛清を免れるため、1189年に没したという偽装をした。
・ハンセン病にかかり、顔が変形したため出家した。
・合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、中風のため摂津国で没した。
与一の出没年は不詳になっていて、謎の多い人物です。
与一は屋島の合戦以前に、義経の命を受けて出陣の途中、栃木県大田原市から京都に向かう道中で病にかかり、京都伏見で療養し、即成院の本尊・阿弥陀如来の霊験にすがることにより、病を克服し、屋島の合戦に挑むことが出来ました。(即成院HPより抜粋)その後、平家軍が掲げる扇の的を射抜く屋島の合戦の功で、五ヶ国の荘園を与えられ、後年は剃髪して、京都・伏見の即成院に没しました。
扇の的で有名な那須与一ゆかりの即成院へ行ってきました。こちらには、平安末期に造られたとされる与一の墓や、与一が信仰した阿弥陀如来と二十五菩薩像があります。明治時代、深草大亀谷の故地から現在の即成院に移された与一のお墓は約3mの石塔でかなり大きなお墓です。(写真撮影は禁止です)与一のお墓の横には、那須家先祖のお墓もありました。(写真右は先祖のお墓です)
与一の墓は、栃木県大田原市の玄性寺、神戸市須磨区那須神社、岡山県井原市、広島県河内市など日本各地に数箇所あります。
神戸のお墓についてはラメールさんのHP http://blog.goo.ne.jp/jnk024/c/57c8f2a037bca03ed43885cd8235c569で紹介されています。
みなさん、明けましておめでとうございます。昨年は当ブログへ起こしいただいてありがとうございました。「義経ゆかりの地」を旅するつもりで始めたのですが、いつのまにか義経をとりまく人にも魅せられ、「源平史跡を旅する」ブログになりました。今年も私の足を延ばせる範囲で史跡を追って行きたいと思います。みなさんのコメントでサポートよろしくお願いいたします。
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