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2006年2月17日 (金)

建礼門院右京大夫(5)

やっと想いで右京大夫を手に入れた隆信であったが、次第に彼女への気持ちは冷めていくのでした。

 越えぬればくやしかりける逢坂を なにゆゑにかは踏みはじめけむ

年月は過ぎ、定家から「新勅撰集」を編集するにあたって、建礼門院の女房時代の召名と後鳥羽院の女房時代の召名のどちらの名をとるか問われ、右京大夫は昔の名の方を選びました。昔、わずか5、6年呼ばれた建礼門院右京大夫という名、のちに20年も呼ばれた後鳥羽院時代の名・・・彼女は資盛との思い出深い名の方を選んだのでしょうか?

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コメント

やっとの思いで手に入れたのに・・・
その過程が激しく燃えただけ・・・

これで捨てられるんじゃ女性は堪りませんね~!

ラメールさんの仰る通り、想いが成就するとその後は・・・?ですね。
右京大夫は振り向かなければ良かったのに!

昨日の続編ですね。

思いつめた男女が添い遂げると言う結末を迎えないと相手への思いは死ぬまで忘れないでしょうね。
別れることで、次の恋が「これこそ本当の恋だ」と思って又情熱を燃やせるのでしょうね。

隆信の右京大夫に対する想いと資盛の想いとは全く違うものだったのでしょう。右京大夫は一時的でも、二人の男性から愛される喜びを感じていたのでしょうか?

この歌から深い後悔が読み取れます。
こんな思いをさせた隆信はひどいヤツですね。
でも、後世に残る絵を残したのは立派です。

隆信が、好色家といわれるのがこのことからでもわかりますね。文化人であったのは認めますが・・・

はじめまして。
建礼門院右京大夫ファンの一人です。
「昔の名こそとめまほしけれ」と、建礼門院に仕えた時代の名前を残素ことを希望した右京大夫・・・生涯資盛への思いを忘れられなかったんですね。
平家が滅び、残党狩りなどが行われている時代に、この名前を選んだ右京大夫は、勇気ある女性だったんだと思います。

hiroさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
隆信に一度は心を許しても、心の底では、常に資盛のことを思っていたのでしょうね。最後にこの名前を選択したのが、資盛への愛の証といえるでしょう。

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