常盤伝説(2)
栃木県葛生町にも常盤の伝説が残っています。
常盤地区の山間部に常盤の墓といわれる五輪塔がある。常盤は、義経を追って奥州に向かう途中、葛生の大釜に立ち寄った。しかし、山道で、馬が転落ししてしまい、先に進めなくなった常盤は家来の有綱と共にこの地に暮らすこととなった。二人の死後、有綱は有綱大明神として神社に祭られ、常盤には五輪塔が建てられた。(葛生町商工会HPより)
昭和30年に葛生町として合併された町の名前にも「常盤村」と常盤の名前が入っていました。
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栃木県葛生町にも常盤の伝説が残っています。
常盤地区の山間部に常盤の墓といわれる五輪塔がある。常盤は、義経を追って奥州に向かう途中、葛生の大釜に立ち寄った。しかし、山道で、馬が転落ししてしまい、先に進めなくなった常盤は家来の有綱と共にこの地に暮らすこととなった。二人の死後、有綱は有綱大明神として神社に祭られ、常盤には五輪塔が建てられた。(葛生町商工会HPより)
昭和30年に葛生町として合併された町の名前にも「常盤村」と常盤の名前が入っていました。
常盤御前の最期については諸説ありますが、今日は関ヶ原に伝わる常盤御前の話を紹介します。
遮那王(牛若)が、鞍馬寺から藤原秀衡の住む平泉に向かったことを知った常盤は、乳母の千種を連れ、牛若の後を追いかけたが、関が原の付近で、土賊に襲われ命を落としてしまった。土地の人が哀れに思い、この地に葬り、墓を立てたという。
また、常盤を殺した土賊を牛若が皆殺しにして母の恨みを晴らしたという岩佐勝似の絵巻物もあるそうです。
後に関西を旅した芭蕉が、この地に立ち寄り、
義朝の心に似たり秋の風
という句を残しました。(関ヶ原HPより)
やっと想いで右京大夫を手に入れた隆信であったが、次第に彼女への気持ちは冷めていくのでした。
越えぬればくやしかりける逢坂を なにゆゑにかは踏みはじめけむ
年月は過ぎ、定家から「新勅撰集」を編集するにあたって、建礼門院の女房時代の召名と後鳥羽院の女房時代の召名のどちらの名をとるか問われ、右京大夫は昔の名の方を選びました。昔、わずか5、6年呼ばれた建礼門院右京大夫という名、のちに20年も呼ばれた後鳥羽院時代の名・・・彼女は資盛との思い出深い名の方を選んだのでしょうか?
右京大夫には資盛の他に藤原隆信という恋人がいたという。隆信は、藤原定家の異父同母の兄弟にあたり、右京大夫より14、5歳年上の似絵の名手であった。その絵が歴史の教科書に載っている後白河天皇や源頼朝の絵だと伝えられている。隆信は、右京大夫に自分を受け入れてくれという歌を贈ります。既に資盛という恋人がいた右京大夫は、隆信からの求愛を続けましたが、熱烈なアプローチについに彼を受け入れてしまうのでした。
資盛の死を知らされた右京大夫は、夫・平道盛の後を追って入水した小宰相のように死ぬことも、建礼門院のように出家することも出来ず、昔の資盛の領地を訪ねて思い出にひたったり、自分の死後、誰が資盛を弔ってくれるのかを心配していた。
いかにせむ 我がのちの世はさてもなほ むかしの今日を とふ人もがな
源平合戦の最中、平家の都落ちしが決まり、資盛は「道の光もかならず思いやれ」と言い残し、右京大夫と別れた。西海から平家の悲報が伝わるたびに右京大夫は心を痛めた。
いずくにて、いかなることを思ひつつ こよひの月に袖しぼるらん
やがて資盛の訃報が右京大夫のもとに伝わる。
かなしともまたあはれとも世のつねに いるべきことにあらばこそあらめ
右京大夫は、16歳で建礼門院のもとへ出仕し、宮仕えをしていくうちに、清盛の孫であり、重盛の次男、維盛の異母弟でもある平資盛と恋に落ちた。そして、資盛に次の歌を贈った。
散らすなよ 散らさばいかがつらからむ しのぶの山にしのぶ言の葉
身分違いの恋、そして北の方がいる資盛とは、忍ぶ恋を強いられなければなりませんでした。
建礼門院が亡くなったのは、大原の寂光院とされていますが、日時に関しては公文書にも記載されておらず、はっきりとしません。平家物語では、1191年2月、源平盛衰記では、1224年年、歴代皇紀では1213年・・・この他にも諸説あるようです。現在は、宮内庁管轄の大原西陵で眠っています。
大原に移った建礼門院を慰める為に、里人が、夏野菜と大原の赤しばを塩で漬け込んだものを建礼門院に出したところ、大変喜び、しその葉(紫の葉)にちなんで、建礼門院が柴葉漬け(柴漬け)と名付けたといわれています。紫は高貴な色、建礼門院のイメージに合いますね。
寂光院本堂前に汀の池という庭池があるが、これは後白河天皇が大原を訪ねた折に詠んだ歌にちなんでいる。
池水にみぎわのさくら散りしきて なみの花こそさかりなりけれ
法皇が大原を訪れたのは、4月20日過ぎであったが、気温の低い大原では、桜の花びらが散って池に舞う様を目にすることができたのだろう。
平家滅亡後、頼朝は、宗盛の遺領を建礼門院に贈ったが、やがて1185年10月、女房の一人である右京太夫の助言で、建礼門院は、長楽寺から大原の寂光院へ移った。しかし、頼朝は、大原の入り口「花尻の森」に松田源太夫という人を監視役として建礼門院を見張らせたという。人里離れた大原でも、建礼門院は心穏やかに暮らすことはできなかったのでしょうか。
1185年5月1日、建礼門院が剃髪された時、3月に壇ノ浦で入水された安徳天皇が間際まで召されていたという形見の直衣を御布施として自ら幡を縫われ、御菩提を弔われた。その実物が長楽寺に保管されてあり、春季特別展で一般公開されています。近年の調査の結果、800年前の平絹の繊維に間違えないことがわかったそうです。(長楽寺HPより)
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