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2006年2月

2006年2月28日 (火)

常盤伝説(2)

栃木県葛生町にも常盤の伝説が残っています。

常盤地区の山間部に常盤の墓といわれる五輪塔がある。常盤は、義経を追って奥州に向かう途中、葛生の大釜に立ち寄った。しかし、山道で、馬が転落ししてしまい、先に進めなくなった常盤は家来の有綱と共にこの地に暮らすこととなった。二人の死後、有綱は有綱大明神として神社に祭られ、常盤には五輪塔が建てられた。(葛生町商工会HPより)

昭和30年に葛生町として合併された町の名前にも「常盤村」と常盤の名前が入っていました。

2006年2月27日 (月)

常盤伝説(1)

常盤御前の最期については諸説ありますが、今日は関ヶ原に伝わる常盤御前の話を紹介します。

遮那王(牛若)が、鞍馬寺から藤原秀衡の住む平泉に向かったことを知った常盤は、乳母の千種を連れ、牛若の後を追いかけたが、関が原の付近で、土賊に襲われ命を落としてしまった。土地の人が哀れに思い、この地に葬り、墓を立てたという。
また、常盤を殺した土賊を牛若が皆殺しにして母の恨みを晴らしたという岩佐勝似の絵巻物もあるそうです。
後に関西を旅した芭蕉が、この地に立ち寄り、

 義朝の心に似たり秋の風

という句を残しました。(関ヶ原HPより)

2006年2月26日 (日)

常盤御前生誕の地 源光寺(2)

その後、常盤は、牛若を鞍馬寺に預け、清盛との子・廊の御方を産みます。清盛とは別れ、大蔵卿・藤原(一条)長成のもとへ嫁ぎ平凡な日々を過ごしました。晩年、常盤は生まれたこの地に庵を結び、静かな余生を送ったそうです。

源光寺には常盤の墓と、幼子を連れたマリア様のような常盤の像があります。5_b 2_b 6_b

2006年2月25日 (土)

常盤御前生誕の地 源光寺(1)

京福電車「常盤駅」の南側に常盤御前ゆかりの寺、源光寺がある。通称。常盤院とも呼ばれ、嵯峨天皇の皇子・源常公の山荘を寺に改めたと伝えられる。
この地に生まれた常盤は、近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女であったが、源義朝に見そめられ、今若・乙若・牛若を産んだ。しかし、義朝は平治の乱で討たれ、常盤は残された子供の命を助ける為、子供達を連れて、敵方・平清盛のいる六波羅邸に出頭し、命乞いをした。清盛は常盤の美しさに負けて、常盤と子供達を助け、常盤を側室にしたのであった。
(嵐電エリアマップより抜粋)7_b 1b


2006年2月24日 (金)

牛若誕生の地(6) 常徳寺

常盤御前が牛若の安産を祈願して寄進したという常盤地蔵が安置されています。1_b 2_b 3_b

2006年2月23日 (木)

牛若誕生の地(5)光念寺

常盤御前が牛若丸の安産を祈願して光念寺に腹帯地蔵を寄進したと伝えられている。ゆえに、ここは安産祈願の寺として知られている。2_b 3b 4_b

2006年2月22日 (水)

牛若誕生の地(4)牛若丸産湯井ノ遺址

誕生井から徒歩5分くらいの民家の前にも、牛若の誕生に関する史跡・牛若丸産湯井ノ遺址があります。当時この辺りに義朝の別邸があったといわれています。1_b 3b

2006年2月21日 (火)

牛若誕生の地(3)胞衣塚

誕生井のそばには、牛若丸の胞衣と臍の緒が埋められているという胞衣塚(えなづか)があります。1b

2006年2月20日 (月)

牛若生誕の地(2)牛若丸誕生井

牛若のバス停から数分の畑の真ん中に、牛若丸誕生井の石碑があります。牛若丸はこの辺りで産まれたとされています。b 1b

2006年2月19日 (日)

牛若生誕の地(1)牛若の地名

平家の話が続いたので、今日からまた源氏方に戻ります。

昨年の秋、京都の北区紫竹に行って来ました。ここで義経が乳児期を過ごし、牛若町、牛若通りという地名、市バスの停留所「牛若」が今でも残っています。紫竹は父・義朝の別邸があったところで、この辺りに母・常盤の史跡が残っています。_b

2006年2月17日 (金)

建礼門院右京大夫(5)

やっと想いで右京大夫を手に入れた隆信であったが、次第に彼女への気持ちは冷めていくのでした。

 越えぬればくやしかりける逢坂を なにゆゑにかは踏みはじめけむ

年月は過ぎ、定家から「新勅撰集」を編集するにあたって、建礼門院の女房時代の召名と後鳥羽院の女房時代の召名のどちらの名をとるか問われ、右京大夫は昔の名の方を選びました。昔、わずか5、6年呼ばれた建礼門院右京大夫という名、のちに20年も呼ばれた後鳥羽院時代の名・・・彼女は資盛との思い出深い名の方を選んだのでしょうか?

2006年2月16日 (木)

建礼門院右京大夫(4)

右京大夫には資盛の他に藤原隆信という恋人がいたという。隆信は、藤原定家の異父同母の兄弟にあたり、右京大夫より14、5歳年上の似絵の名手であった。その絵が歴史の教科書に載っている後白河天皇や源頼朝の絵だと伝えられている。隆信は、右京大夫に自分を受け入れてくれという歌を贈ります。既に資盛という恋人がいた右京大夫は、隆信からの求愛を続けましたが、熱烈なアプローチについに彼を受け入れてしまうのでした。

2006年2月14日 (火)

建礼門院右京大夫(3)

資盛の死を知らされた右京大夫は、夫・平道盛の後を追って入水した小宰相のように死ぬことも、建礼門院のように出家することも出来ず、昔の資盛の領地を訪ねて思い出にひたったり、自分の死後、誰が資盛を弔ってくれるのかを心配していた。

いかにせむ 我がのちの世はさてもなほ むかしの今日を とふ人もがな

2006年2月13日 (月)

建礼門院右京大夫(2)

源平合戦の最中、平家の都落ちしが決まり、資盛は「道の光もかならず思いやれ」と言い残し、右京大夫と別れた。西海から平家の悲報が伝わるたびに右京大夫は心を痛めた。

 いずくにて、いかなることを思ひつつ こよひの月に袖しぼるらん

やがて資盛の訃報が右京大夫のもとに伝わる。

 かなしともまたあはれとも世のつねに いるべきことにあらばこそあらめ

2006年2月12日 (日)

建礼門院右京大夫(1)

右京大夫は、16歳で建礼門院のもとへ出仕し、宮仕えをしていくうちに、清盛の孫であり、重盛の次男、維盛の異母弟でもある平資盛と恋に落ちた。そして、資盛に次の歌を贈った。

散らすなよ 散らさばいかがつらからむ しのぶの山にしのぶ言の葉

身分違いの恋、そして北の方がいる資盛とは、忍ぶ恋を強いられなければなりませんでした。

2006年2月11日 (土)

建礼門院の最期

建礼門院が亡くなったのは、大原の寂光院とされていますが、日時に関しては公文書にも記載されておらず、はっきりとしません。平家物語では、1191年2月、源平盛衰記では、1224年年、歴代皇紀では1213年・・・この他にも諸説あるようです。現在は、宮内庁管轄の大原西陵で眠っています。

2006年2月10日 (金)

建礼門院としば漬け

大原に移った建礼門院を慰める為に、里人が、夏野菜と大原の赤しばを塩で漬け込んだものを建礼門院に出したところ、大変喜び、しその葉(紫の葉)にちなんで、建礼門院が柴葉漬け(柴漬け)と名付けたといわれています。紫は高貴な色、建礼門院のイメージに合いますね。

2006年2月 8日 (水)

大原御幸(2)

寂光院本堂前に汀の池という庭池があるが、これは後白河天皇が大原を訪ねた折に詠んだ歌にちなんでいる。

池水にみぎわのさくら散りしきて なみの花こそさかりなりけれ

法皇が大原を訪れたのは、4月20日過ぎであったが、気温の低い大原では、桜の花びらが散って池に舞う様を目にすることができたのだろう。

2006年2月 7日 (火)

大原御幸(1)

大原の寂光院に移った建礼門院のもとに、1186年4月下旬、後白河天皇が数人のお供を連れ、お忍びで訪ねて来た。天皇が見たのは、建礼門院の粗末な暮らしぶりでした。突然の天皇の訪問に、涙の止まらない建礼門院に、天皇は「万物は流転して果てる。天人五衰ということもある。」と慰めの言葉をかけた。そして、お互いに平家の世を懐かしんだという。

この場面を描いた日本未知画伯の絵が、長楽寺に昭和61年に寄贈されました。ooharagokou

(長楽寺HPより)

2006年2月 6日 (月)

長楽寺(6)寂光院へ

平家滅亡後、頼朝は、宗盛の遺領を建礼門院に贈ったが、やがて1185年10月、女房の一人である右京太夫の助言で、建礼門院は、長楽寺から大原の寂光院へ移った。しかし、頼朝は、大原の入り口「花尻の森」に松田源太夫という人を監視役として建礼門院を見張らせたという。人里離れた大原でも、建礼門院は心穏やかに暮らすことはできなかったのでしょうか。

2006年2月 5日 (日)

長楽寺(5)安徳天皇御影

長楽寺に伝わる貴重な資料として、わずか8歳で入水された安徳天皇の「安徳天皇御影」がある。前住職の時代に渡辺拍舟画伯によって模写されたもので、その原画は泉湧寺に納められているが、軸の裏書に、「長楽寺什物」と記されていることから、かつては長楽寺に祭られていたものらしい。antokutei

(長楽寺HPより)

2006年2月 3日 (金)

長楽寺(4)建礼門院御影像

29歳で出家した建礼門院の御影が長楽寺に保存されている。壇ノ浦の合戦後、京に戻った建礼門院に対しての、源氏方の監視が厳しく、この御影も源氏方の目を逃れる為、当時は表面を墨で覆い隠し祭られていたと伝えられている。

実物は春季特別展で公開されています。kenreimonin

(長楽寺HPより)

2006年2月 2日 (木)

長楽寺(3)建礼門院十三重御塔

1185年5月1日、建礼門院は、29歳の時、この寺で髪をおろしました。長楽寺の境内には、建礼門院御塔があります。(御髪塔とも伝えられる) 説明板によると、「この塔は以前は長楽寺山山腹八丁台の景勝地にあったが、明治初年にこの地に移された。平家物語には、鷲尾にて69歳で亡くなった、遺骨を鷲尾に納めたともあり、鷲尾山長楽寺のことを指しているとすれば、この御塔は女院の御舎利塔とも拝される。」 鷲尾という地名は、東山区鷲尾町という町の名前に見られます。5_b 6_b

長楽寺(2)建礼門院

1185年5月1日、建礼門院が剃髪された時、3月に壇ノ浦で入水された安徳天皇が間際まで召されていたという形見の直衣を御布施として自ら幡を縫われ、御菩提を弔われた。その実物が長楽寺に保管されてあり、春季特別展で一般公開されています。近年の調査の結果、800年前の平絹の繊維に間違えないことがわかったそうです。(長楽寺HPより)

2006年2月 1日 (水)

長楽寺(1)建礼門院

壇ノ浦での合戦では、安徳天皇を抱いた二位の尼(平時子)をはじめ、平家の女官達が次々と海に飛び込む中、着物の袂に硯などのおもりを入れて飛び込んだ建礼門院は、源氏方によって熊手で長い髪の毛を引き寄せられ、死ぬことも許されませんでした。平家滅亡後、京に戻った建礼門院は、東山の長楽寺で、髪をおろしました。1b 2_b

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