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2006年6月

東大寺(3)大仏殿

聖武天皇によって建てられたが、1180年12月28日、重衡の兵火により、大仏殿をはじめほとんどの伽藍を焼失。翌年から大勧進職に任命された俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)によって着手される。重源は全国を勧進する一方、源頼朝の援助も得た。
1195年、頼朝ら列席のもと、落慶法要が営まれた。
しかし、その後も1567年、永禄の兵火により焼失し、1709年に再建された。
高さ49m、幅57m、奥行き50mで世界一の木造建築物とされている。

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東大寺(2)中門

大仏殿とともに火災に遭っていて、現在のものは、1709年の再建である。
中門の両脇から大仏殿まで回廊が続いている。
重要文化財。6c_4

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東大寺(1)南大門

高さ25m、入母屋造で内部は吹き抜けになっている。
1180年、兵火により焼失後、鎌倉時代1199年に復興された。
門の左右に立つ金剛力士像は鎌倉時代の仏士、運慶・快慶がその一門を率いてわずか75日で完成させたという。門に向かって右側が吽形(口を閉じた像)、左側が阿形(口を開いた像)である。

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平重衡の南都焼き討ち(2)

南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをする。
1184年、一の谷の合戦で、重衡は捕らえられ、鎌倉に送られた。重衡の潔い態度に、頼朝は一武将としての敬意を表し、客人のように扱ったという。しかし、南都からの再三にわたる重衡の引渡し要求に応じることとなった。


重衡が捕らえられた場所は神戸・須磨寺近くに
重衡捕われの松の跡として残っています。
この史跡に関しては過去の記事2005年10月31日「平重衡捕われの松」http://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/2005/10/index.html をご覧下さい。

最期は、1185年木津川のほとりで首を刎ねられ、奈良の般若寺の門前に梟首された。
この場所からは、東大寺が見えるという。

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平重衡の南都焼き討ち(1)

南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景があり、1180年12月、清盛が五男の重衡に南都攻略を命じた。
夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福寺に燃え移り、東大寺まで広がったという。そして庶民が逃げこんだ大仏殿もが
炎に包まれてしまった。

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興福寺(3)北円堂

北円堂は、鎌倉時代の再建で、三重塔とともに興福寺境内でもっとも古い建物です。
堂内には、運慶、その一門による弥勅如来坐像、無著・世親菩薩立像などが安置されています。

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興福寺(2)東金堂

東金堂は中金堂の東側にあり、薬師如来を本尊とします。
現在の堂は1415年の再建で、堂内には、四天王立像、十二神将立像、継摩居士坐像、文殊菩薩坐像などが安置されています。

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興福寺(1)五重塔

藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、奈良時代初期には四大寺のひとるとして栄えてしましたが、源平合戦の最中、平清盛の五男・重衡の兵火によってほとんどの堂・寺宝を焼失しました。
奈良公園のシンボルとなっている五重塔は、幾度も焼失、再建を繰り返し、現在のものは1420年に建てられました。高さ約50mで、古塔としては、京都の東寺に次いで日本で二番目の高さを誇っています。

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法華寺(3)法華寺の歴史

法華寺は、もと藤原不比等の住居であったものを、光明皇后が総国分寺尼寺として建立されました。平安時代、平重衡の南都焼き討ちでは、東大寺、興福寺とともに被害を受けました。鎌倉時代、西大寺の叡尊によって再興されましたが、その後も兵火や地震で建物を焼失しました。現在の本堂、鐘楼、南門は、1601年、豊臣秀頼と母・淀君によって再興されたものです。

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法華寺(2) 本堂

桃山時代に建築された本堂には、光明皇后がモデルという木造十一面観音立像(国宝)、乾漆維摩居士坐像(重文)、横笛像などが安置されている。

横笛像は、横笛が滝口入道との間に交わされた文がらをもって自らの姿を作ったものとされています。

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法華寺(1)横笛堂

奈良の法華寺の境内には、平家物語に登場する建礼門院の雑士女・横笛が出家後、移り住んだという横笛堂がある。横笛は斉藤時頼(後の滝口入道)とのかなわぬ恋の行く末、出家し、この横笛堂で仏門に励んだといわれている。

滝口入道と横笛については1/16~1/25に掲載してありますのでご覧下さい。
http://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/2006/01/index.html

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土蜘蛛とは

土蜘蛛とは、巨大な蜘蛛の妖怪をさす他、大和政権に従わなかった背が低く、土蜘蛛のように手足が長い先住穴居民族の卑称を意味し、土蜘蛛に関する記述は、日本書紀、古事記、風土記にも見られます。
頼光は源氏の武士の棟梁であり、朝廷の武士でもありました。ゆえに朝廷に反発する土蜘蛛に命を狙われたともいえるでしょう。

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東向観音寺 土蜘蛛塚

北野天満宮内の東向観音寺の境内には、土蜘蛛をまつる土蜘蛛塚あります。
石灯籠の火袋で、もとは七本松通一条の清和院前にありました。そこには頼光を悩ませた土蜘蛛が住んでいたといわれています。
明治時代、塚を掘り起こしたところ、石仏や火袋、墓標の破片が出てきました。
ある人が灯籠を貰い受け、庭に飾ったら家運が傾いてしまい、土蜘蛛の祟りではないかといわれ、ここに奉納したといわれています。1c_7

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源頼光と土蜘蛛(2)

土蜘蛛が去って行った後、頼光の家来の四天王が土蜘蛛の血の跡を辿って行くと古塚に行き当たった。塚を掘り起こすと塚の中から土蜘蛛が現れ、蜘蛛の糸を投げかけて来た。四天王はやっとのことで土蜘蛛を切り倒し、首を落として退治した。すると、頼光の具合はたちまち快方に向かったという。

土蜘蛛の伝説には二種類の話があり、この話は原形が平家物語の謡曲「土蜘蛛」の話です。もうひとつは土蜘蛛草子によるものです。

土蜘蛛の伝説は能や謡曲、歌舞伎で演じられています。

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源頼光と土蜘蛛(1)

源頼光にまつわる伝説として土蜘蛛退治の話があります。

ある日、熱病で寝込んでいた頼光のもとに、腰元の胡蝶が薬を持ってやって来た。
実はこの胡蝶は土蜘蛛の化身で、頼光を殺そうとしていたのだった。
薬を飲んだ頼光は具合が悪くなった。
その夜、今度は僧に化けて再び頼光のもとへ現れ、頼光を縄で縛ろうとした。
とっさに頼光は名刀・漆丸で僧に切りつけると、僧は血をしたたらせながら去って行った。


頼光は摂津源氏の流れを汲み、鬼や魔物退治をした武勇に優れた武将である。

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冠者殿社(3)

土佐坊がなぜ祀られたか?
これは誓文払いに関係している。
誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのことである。
土佐坊は死に際に「今後は忠義だてのために偽りの誓いをした者を救ってやる」という誓文返しの願をかけ、神になったといわれている。
また、祇園や先斗町の遊女たちは、日頃お客についている嘘を帳消しにするためにお参りしたという。(「義経と平家の京都」参照)


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冠者殿社(2)

誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返した。その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出された。
義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜しければ鎌倉に返してやる。」と言ったのだが、土佐坊は、「この命は鎌倉殿に捧げたもの。即刻、首をはねていただきたい。」と答えた。
そして、土佐坊、息子、郎党の三人が六条河原で首をはねられた。

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冠者殿社(1)

京都の繁華街・四条通りの八坂神社御旅所の右側に、冠者殿社という小さな社がある。
ここは、土佐坊昌俊を祭ったものといわれている。
土佐坊といえば、頼朝の命で義経を襲撃した人物である。
土佐坊は、熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれる。義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げた。1c_6

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八坂神社 忠盛灯籠(3)

この話の舞台となった場所は、祇園の八坂神社の境内に忠盛灯籠として残っている。
(ここは、以前は一条天皇の中宮彰子の火葬地であった。)
忠盛はこれをきっかけに出世を重ね、武士で始めて殿上人となる。
一方、祇園女御の屋敷は円山公園の音楽堂の西側あたりであった。( 祇園女御とは、祇園に豪華な邸を与えられて住んだことからそう呼ばれた。)
清盛出生については諸説あり、清盛の母が祇園女御だという説は「平家物語」に、同じ御落胤説でも清盛の母が、祇園女御の妹という説は近江の胡宮神社の古文書に書かれているという。祇園女御の妹説では、この妹は清盛を産んでしばらくして亡くなってしまい、姉の女御が清盛を引き取って育てた。やがて清盛は正式に忠盛の嫡男となったという。C_25

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八坂神社 忠盛灯籠(2)

その正体は・・・灯明をつけるため、油瓶と火を入れた土器を持った法師であった。
雨除けの笠をかぶった姿が鬼のように見えただけであった。
討ち取れと命令した上皇であったが、誤って人を殺さずに済み、忠盛の機転に感心した。
法皇はこの褒美として、自分の愛人である祇園女御を忠盛に下賜した。その時、祇園女御は法皇の子を宿してあり、それが清盛だという説がある。

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八坂神社 忠盛灯籠(1)

清盛が生まれる前の話である。
白川法皇が祇園女御のもとへ通う際、平忠盛がお供をして祇園を歩いていた。
五月雨が視界をさえぎり、御堂のそばに光る物体があらわれた。
法皇は「あれは鬼に違いない。手に持っているのは打出の小槌に違いない。」と忠盛に討ち取るように命じた。 しかし、忠盛は冷静で、「狐か狸でしょう。殺さず生け捕りにしましょう。」とその物体に近づいて行った。

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