屏風
大河の中で最後まで大事な役割を果たしたのが屏風の存在。
ともに「新しき国」を目指した義経と清盛。
二人の心を結んだのはこの屏風でありました。
義経がまだ牛若丸だった頃にいたずら書きをした跡、また清盛が描いた船も見えます。
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大河の中で最後まで大事な役割を果たしたのが屏風の存在。
ともに「新しき国」を目指した義経と清盛。
二人の心を結んだのはこの屏風でありました。
義経がまだ牛若丸だった頃にいたずら書きをした跡、また清盛が描いた船も見えます。
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源平合戦の長い戦闘の一日、もう日が暮れかかった時、沖の平家の小船が源氏軍の方へ向かって来た。舟には若い美女が真っ赤な地色に金の日の丸が描かれた扇を竿に挟み船べりに立て、源氏に向かって手招きしている。
義経は、弓の名手・那須与一に「あの扇を射よ。」と命じた。
与一は「失敗すれば末代までの恥。」と一度は辞退するが、義経の命には逆らえなかった。
与一は馬を海に乗り入れたが、扇の的までは約70m。
風がおさまるのを待ち、神経を集中し、「南無八幡」と念じて矢を放った。
矢は見事に扇を射抜き、扇はひらひらと海に落ちた。
この様子を見守っていた源平両軍が歓声を上げて与一を褒め称えた。
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これが最終話で、義経が白馬と化し、天井を突き抜けて空に舞い上がっていった時のお堂の模型です。この場面は賛否両論でしたけど、義経の魂は、鞍馬に戻って今もなお、生きていると信じたいです。
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義経と弁慶が初めて出会ったとされる京の五条の大橋。
ドラマでは桜吹雪が舞い、幻想的に描かれていました。
大きな月も印象的でしたね。
放送博物館ではセットの模型が展示されていて、その前で写真撮影が出来るようになっています。
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龍笛は、雅楽の歴史において、舞踏とともに宮廷や寺院の行事に欠かせないものでした。平安時代以降は貴族や武士のたしなみとして親しまれました。
ドラマの中で義経が吹く龍笛の音は、母・常盤を想う心の象徴となっていました。
龍笛の切ない音色がぴったりでしたね。
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清盛は娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇の子を懐妊した時、安産祈願のために8000基もの泥塔を作らせた。
*実際、京都の六波羅蜜寺で、境内の池から泥塔が発掘され、宝物殿に展示されている。
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平安時代に始まった貝合わせは、合わせものの一つとして、貝殻の色彩や形の美しさを競う貴族の遊びでした。二枚一組のハマグリを裏返して対を探す。家事などしない上流階級の女性は毎日が退屈で、一日中、貝合わせやすごろくをして遊んでいたそうです。
何ともうらやましい話ですね。
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弁慶は、白麻の小袖に括り袴、黒麻の素絹衣に麻編みの上締めを着用。
合戦時には、白麻の袈裟頭巾を被る。
そして忘れてはならないのが、弁慶の道具。
「義経記」によると、弁慶はわざと弓矢を持たず、鶴の飾りのついた4尺2寸の太刀を帯び、岩透しという刀を差し、1丈2尺の木の棒を脇に挟み、鉞、鎌、熊手を持っていたという。
七つ揃ったところでは、熊手、槌、鋸、鉞、薙鎌、刺股、薙刀がある。
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小袖は平安時代中頃に誕生し、平安時代から鎌倉時代にかけて貴族の間で流行したといわれています。
袖口が大きく袖丈一杯まで開いている大袖に対し、小袖は袖口が狭くなっているのが特徴です。
政子の小袖。
ドラマでは腰に褶(しびら)という巻き布のようなものを巻きつけていた時も多かったですね。男勝りの政子ならではの衣装です。
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水干は、庶民、下級官人、武士が着た上衣で、水張りにして干した布のいうことが名前の由来になっている。盤領(あげくび)で首上についている紐を合わせて結ぶ。袖付、奥袖の縫い目、胸に菊綴がつく。
鎌倉時代以後は、公卿は鷹狩、蹴鞠のとき以外は幼年の用いるものとし、武家は礼装に使った。
男子の正装であるが、白い水干に緋袴は男舞を舞う白拍子の衣装の特徴とされた。
正装のときは、立烏帽子をかぶった。立烏帽子は本来、男性が普段かぶるもので、上皇や位の高い公卿、武士まで幅広い層で用いられた。
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昨年の大河ドラマ「義経」で使用された衣装や小道具が展示されている愛宕にあるNHK放送博物館に行って来ました。
そこで展示されていた衣装や小道具を見ながら当時の人々の暮らしを振り返ってみたいと思います。
まずは義経の直垂から。
武士の日常着である直垂は、左右の前身ごろを合わせるVネックの上衣と、共布の袴を組み合わせたもので、左右の襟に胸紐、両袖の袖付け、背、奥袖の縫い目、襟の合引きのところに丸打ち紐の菊綴がついている。
袖細の直垂は庶民にも用いられたが、徐々に武家の礼服となっていった。
(大河ドラマストーリー参照)
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一方、下の岩は、日本海の荒波に立ち向かうような雄々しい様から、女岩に対して男岩といわれています。
雨晴海岸は、日本海沿岸でも遠浅で絶好の海水浴場としても有名です。
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雨晴海岸に浮かぶ岩で、周りにいくつかの小岩があり、子を持つ母のような様から女岩と呼ばれています。この女岩では「如」と書かれた小石が発見され、江戸時代に書かれた経石(法華経の文字が書かれた)のひとつと考えられています。
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奥州へ向かう義経主従がこの岩の空洞に入ってにわか雨が晴れるのを待ったと伝わっている。「雨晴」の地名の由来はこの伝説によるという。
義経岩は雨晴岩ともいわれ、岩の前には小さな鳥居、岩の上には「義経社」の小さな社がある。

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雨晴海岸は、日本の渚百選に選ばれた白砂青松の景勝地。
晴れた日には、富山湾越しに立山連峰が見えることがあるという。
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気多神社の境内にある大伴神社。
昭和60年に大伴家持没後1200年を記念して建てられました。
家持は越中守として赴任した5年間に224首の歌を詠んだとされています。
境内に家持の歌碑がありました。
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社伝によると、718年に行基が創建したという説、757~765年に能登の気多神社から勧請したという説があります。
また、
1183年、木曽義仲が兵を率いて越後から越中国府に入り、兵を集めた際の兵火で本社を除き、末社などの堂舎が消失した。
1187年、義経主従が奥州から北陸道に入り、如意の渡しを過ぎて行った。
1570年、上杉謙信のへ兵火により当社が焼失した。
1654年、前田利常が当社を崇敬し、再興した。
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伏木一宮にある気多神社。
義経主従が奥州に下る際、気多神社に参詣した時の痕跡とされる伝承があります。
本殿の床にある足跡のような模様が弁慶の足跡、柱のくぼみが弁慶のこぶし跡と伝えられています。
本殿には入ることが出来なかったので、足跡は確認できませんでしたが、柱のくぼみはわかりました。下の写真で見えるでしょうか。
向かって左の柱のくぼみが「弁慶のこぶし跡」
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渡し舟が通る小矢部川は、万葉の歌人、大伴家持の歌にも歌われています。
小矢部川は明治33年の庄川改修工事前には、庄川と合流し、富山湾に注いでいたので、合流地点から下流を射水川と呼んでいたそうです。
今から1250年前、越中の国守であった家持が高岡の地で詠んだ歌です。
朝床に 聞けば はるけし 射水川 朝漕ぎしつつ うたふ 船人
伏木には「万葉集」と万葉時代に関する文献、資料を集めた「万葉歴史館」があり、大伴家持に関する展示もあります。
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伏木駅から徒歩で数分の小矢部川河口の渡舟場「如意の渡」
ここには今も伏木と新湊市を結ぶ渡舟があり、地元住民の通勤通学の足となっています。
私も実際この如意の渡に乗船してみました。
乗船料はわずか200円。ぐるっと数分周遊して船着場に戻って来ます。
乗船のしおりをもらえるし、義経一行の気分を味わうにはお薦めです。
船着場の前には、義経と弁慶の看板があり、記念撮影出来るようになっています。
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「義経記」によると、文治3年(1187年)奥州に向かう義経一行が、如意の渡で六渡寺へ進もうとしたところ、渡守の平権守が義経を指して、「判官殿ではないか」と怪しんだ。
とっさに弁慶は「あれが加賀白山から連れて来た御坊で、判官と思われるのは心外だ。」と疑念を晴らすため、扇で義経を打ちのめした。渡守は「そんなに打たなくても判官殿でないとわかればいい。」と同情し、一行はめでたく如意の渡を渡った。
これはまさに安宅の関の話と似ていますよね。
どちらが本当か・・・実際、安宅の関がある小松市と如意の渡のある高岡市で論争が起こったそうですが、今では観光資源として活用できればということで落ち着いたようです。
富山県高岡市伏木の渡船場の近くには弁慶が扇を振り上げ、義経を打つ像があります。
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石川県能美市の道林寺跡には弁慶謝罪の地として、義経と弁慶の像がある。
1187年2月10日、弁慶と富樫の問答により、無事に安宅の関を通り抜けた義経主従。
弁慶は主人を金剛杖で打ったことをこの地で心より謝罪した。
義経は「機知の働きは天の加護」とその忠誠心を厚くねぎらったという。
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安宅の関を通り抜けた弁慶が、無事を喜んで松を逆さまに植えたということから
境内には「弁慶逆植之松」があります。
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782年の創建で、3度の遷座を経て、1647年からこの地にあるという。
義経一行が安宅の関をかろうじて通り抜けたという話にちなんで受験など難関突破の神様として人気を集めている。
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シアターゾーンでは、歌舞伎「勧進帳」を12分の映像で紹介。
10代目市川団十郎さんが舞台で実際着用した衣装などが展示されています。
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関所資料館がリニューアルして2005年にオープンした。
入り口を入ると弁慶のほら貝がお出迎え。
まずは「義経弁慶発見ゾーン」から。
ここでは、義経一行がなぜ安宅の関を通らなければならなかったのかを年表で説明してあります。絵本仕立てになっているので、子供でも読めますよ。
義経人形と弁慶人形が両脇に立ったスペースで写真撮影が出来ます。

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