« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »
1180年5月26日、源頼政は以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がり、平知盛の大軍を宇治川で迎え撃つが、頼政は流れ矢に当たってしまう。負傷した頼政はもはやこれまでと家来の渡辺長七に首を討てと命ずるが、長七は「生きている主人の首は討てません。せめて自害してからにしてください。」と頼んだ。頼政は扇を広げてその上に座り、念仏を唱えて切腹した。(「義経と平家の京都」参照)宇治の平等院の観音堂の前に、芝が扇形になっている頼政終焉の地・扇の芝があります。
木曽義仲追討の命を受けた義経は京都の宇治川を挟んで義仲軍と対峙した。義経軍の家臣である梶原景季と佐々木高綱が先陣を争うことになる。高綱が景季に馬の腹帯が緩んでいると声をかけると、景季が締め直そうと手綱を離している隙に、高綱は宇治川に馬を乗り入れ、宇治川先陣の名乗りをあげた。
この故事にちなんで宇治川の橘島に宇治川先陣之碑が建っています。
木曽義仲の首塚の横に巴之松というのがありました。これは、今年の1月、義仲の命日にあたる20日に、巴御前の最期の地と伝えられる富山から巴御前ゆかりの松の苗木が植樹されたものだそうです。
巴御前・・・義仲の従者でもあり愛妾でもあった。 美しい容貌ながら武勇をもって知られている。 義仲の正妻の子・義高を我が子のように育てた。
巴之松の植樹の記事はコチラ
京のシンボルともいえる五重塔の八坂の塔は、聖徳太子が創建したという法観寺の境内に立っています。その境内には木曽義仲の首塚と伝えられる石塔があります。義仲は木曽山中で育ったため、木曽冠者とも呼ばれた。倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破り入京したが、乱暴狼藉を重ね、公家や京の人々の反感を買うことに。ついには朝廷とも対立することになる。その後、征夷大将軍になり、自ら旭(朝日)将軍を名乗ったが、範頼・義経軍に攻め込まれ、近江粟津で討たれた。義仲の首は六条河原に晒された後、この法観寺の境内に葬られたという。
最近のコメント