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2007年8月24日 (金)

土御門内裏跡

昨年の秋、京都御所を見学したついでにある石碑を訪ねました。
京都御所蛤御門を出ると京都ガーデンパレスホテルがあります。
その前に立つ
土御門内裏跡の石碑

ここは鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の三代の天皇が約24年間に渡り使用していた里内裏(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所として用いたもの)があったところです。
10世紀頃は具平(ともひら)親王の邸宅で、12世紀には源師時の邸宅になり土御門第と呼ばれました。
その後火災や台風に遭い倒壊。保元の乱によって廃絶されました。
今ではぽっつりと石碑が残っているだけです。 (源平史跡177選参照)

平安京左京一条三坊九町にあたるこの地(北は上長者町通 南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通)は10世紀頃に村上天皇の皇子・具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫源師時(みなもとのもろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(ふじわらのあきたか)はこの地を買得して内裏を模した最初の里内裏(さとだいり)を営み、鳥羽天皇から崇徳(すとく)、近衛(このえ)と続く3代、24年もの間、天皇の御所となった。この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。
  鎌倉・室町時代には清浄華院(しょうじょうけいいん)が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。
  江戸時代の寛永12年(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4年(1864)、烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。 明治時代に入った後は転々と所有者が変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。(案内板より)

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義経ゆかりの地を訪ねて」カテゴリの記事

コメント

しずか さん

こんばんは。

今ではホテルの前にぽつりと建つ石碑。

でも、そこには意味がある。

わからない人は、そのまま通り過ぎてしまうような
ところに味わいを見出しているしずかさん。

素晴らしいですね。

鳥羽天皇、崇徳天皇と言えば、源氏物語の世界ですね。
平家物語と源氏物語。
名前は似ているけど、内容はぜんぜん違ってて、それでいて共通のものがあるのですね。

感動さん、こんばんは!

近代的なホテルの前に石碑が建っているのは
ミスマッチですが、どうしてそこに存在するのか
という意味を考えたいですね。

merryさん、こんばんは!

どちらの物語も両天皇は避けて通れませんね。
今、平家物語を読み返しています。

しずかさん、こんばんは!
近代的な建物の中に存在している。
ある意味・・・今の京都らしいと言えば・・・京都らしいと言えるんでしょうか。

話が逸れてしまいますが、ここ数年、近代的な建物とかつての歴史ある建造物との共存方向で進んでいた京都。

近年になって再び、景観論が再燃してきていますが、個人的な意見を言えば・・・あまりにも寺社側が妥協し過ぎて来た様な気がします。。。
特に・・・京都駅のアンバランスな構造を見るたびに、それは感じますね。

個人的な好みはあるかと思いますが、やはりその辺りに・・・奈良との大きな違いをついつい感じてしまいますし、京都ではなく奈良に住む事を選んだ自分があると、改めて感じます。

京都は京都で魅力はあり、素晴らしいところではあるんですが・・・。難しいですね。。。

りっきーさん、おはようございます。

私もりっきーさんに同感します。
ここ数年は京都と奈良を行ったり来たり
しているので、違いをわかります。

京都駅、あのデザインは今も違和感を感じますよ。
私としては、旅の始まりから終わりまで古都の中に居たい気がするのですけどね。
特に帰りはバスを降りて駅に向かうと、現実に
引き戻された感じがします。

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