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三条東殿は、白河法皇が造営した後、後白河上皇が御所としていました。平治元年(1159年)12月9日の夜、源義朝は軍勢500余をもって三条東殿を襲撃。邸内に火を放ち、上皇を連れ出して幽閉し、平治の乱が勃発した。その時、多数の官女が東殿の井戸に入って非業の死を遂げたという。この様は「平治物語」に描かれている。
現在は、姉小路烏丸を西に入った南側にあるファッションビル・新風館の前に石碑が残るのみで、昔そんな殺戮が行われた跡とは思えません。
平安~鎌倉時代、京都の烏丸通りを挟んで三条通りの両側に三条西殿と三条東殿がありました。ともに白河天皇や鳥羽上皇の御所であり、東を東三条内裏、西を西三条内裏とも呼ばれていました。ここ西三条殿は、白河天皇が崩御された御所でもあり、その後は鳥羽天皇や待賢門院たちの御所となりました。(源平史跡177選より)
今はビルの前に説明板が残るのみです。この説明板の場所をこのビルの警備員の方に尋ねたのですが、知らないと言われ、ビルの周りをぐるぐるしてしまいました。(笑)
京都市中京区東洞院通に後白河天皇の皇子・以仁王の御所跡に高倉宮址碑があります。門が高倉小路に面していたため高倉宮御所と呼ばれていました。以仁王は源頼政や俊寛たちと平家打倒を企てたが、発覚。奈良へ逃れる途中に討ち取られてしまう。しかし、以仁王の令旨は源行家らによって源頼朝や木曽義仲ら各国の源氏が挙兵し、平家滅亡へとつながった。
醍醐天皇の皇子・源高明(たかあきら)の邸宅で、高明の娘・明子が住んでいたことから高松殿と呼ばれた。(後に明子は藤原道長の妻となる) その後、後白河天皇の内裏となり、保元の乱では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らがここに参集して白河の地へ攻め込んだ。 平治の乱で全焼してしまうが、鎮守社の高松神明神社が今も残っている。
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