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2007年10月

2007年10月26日 (金)

田辺の旅④闘鶏神社の宝物館

闘鶏神社の宝物館を見せていただきました。
ガラスに反射してしまい、上手く写真が撮れていませんが
左から


横笛・・・義経愛用の笛と言われ、享和元年酉10月27日領主安藤道紀によって奉納されました。

弁慶産湯の釜・・・弁慶出生の時、産湯を沸かした釜といわれています。

湛増の鉄烏帽子・・・
湛増が身に着けていたと伝えられており、産湯の釜と同様、明治の初めに大福院から闘鶏神社に移されました。

湛増の鉄扇・・・熊野別当湛増所持と伝えられています。

   横笛        釜      鉄烏帽子    鉄扇C_2   C_3 C_4 2c  





2007年10月21日 (日)

田辺の旅③湛増・弁慶の像

闘鶏神社の境内には、湛増と弁慶の父子像が建っています。
この像は昭和62に弁慶・熊野水軍出陣800年祭を記念して建立されました。
二人の目の前には鶏の姿が見えます。
どういう想いで二人はこの鶏合わせを見ていたのか。

なんて思いながら写真を写していたら、弁慶祭りに参加される弁慶さんたちが、一緒に写真を撮りましょうかと声をかけてくれました!

1c 1c_2

2007年10月13日 (土)

田辺の旅②闘鶏神社の由来

田辺駅から最初に向かったのが闘鶏神社。
歩いて5分ほどで到着。
この日は弁慶祭りで、こちらの境内でも祭りのイベントがあり、多くの人たちが集まっている中、私は写真撮影に没頭しました。(笑)

日本の闘鶏の歴史

 日本では古来は占いに使われ、平安時代の頃から鶏合わせ(とりあわせ)と呼ばれ、宮中や貴族の間で行われた。この時代に使用されていたのは、地鶏や日本初の外来種の小国であった。
 江戸時代になると、現在のようにシャモによる闘鶏が始まった。
しかし、庶民の間で賭けの対象とされることが多くなり、幕府は何度か禁止令を出した。
 明治時代には法的にも禁止されたが、生き残っていったという。
(Wikipedia参照)

闘鶏神社の由来

 弁慶の父とされる熊野別当湛増が源平合戦の際、紅白の鶏を闘わせ、白鶏が勝ったので源氏に味方し、壇ノ浦に出陣したことに由来する。
 「平家物語」に名高い鶏合わせ壇ノ浦決戦の舞台はここが舞台である。
(田辺探訪、田辺観光協会資料参照)C 1 C_2

2007年10月11日 (木)

田辺の旅① 弁慶像

弁慶祭りが行われた10月6日、紀伊田辺の弁慶の史跡を訪ねてみました。

弁慶といえば誰もが知っている人物ですが、彼が実在していたかは定かではありません。
しかし、彼がここ田辺の出身だという説は、「義経紀」の記述と、田辺市内に残っている弁慶ゆかりの史跡により、地元では広く信じられているそうです。

弁慶は熊野別当家の嫡子幼名を鬼若といい、比叡山で修行をしました。
その後、自らを弁慶と名付け、義経と出会います。
義経との決闘に敗れた弁慶は生涯の家来になることを誓い、生涯を共にしました。

駅の改札を出ると、「田辺の三人」という看板が目に入ります。
やはり彼は田辺の英雄なのでしょうね。
そして探していた弁慶像をバスのターミナルの横に見つけました。C 2c

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