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2008年6月10日 (火)

源朝長(3)昔話に語り継がれる朝長と頼朝の絆

 静岡県磐田市、袋井市、森町に伝わる昔話・「中遠昔話」の中にも朝長の墓のことが登場しています。

1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。
 その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の
朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。
 朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の
積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。
 供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を
鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。

(「磐田昔ばなし」より)

鶴ヶ池についてはこちらをご覧ください。⇒鶴ヶ池

また鶴ヶ池のすぐ近くには日本の秘境100選の一つであるトンボの楽園・桶ヶ谷沼があります。

桶ヶ谷沼についてはこちらをご覧ください。⇒桶ヶ谷沼

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源朝長」カテゴリの記事

コメント

頼朝が放った鶴が、幕末期にいるなんて・・夢のある話ですね(笑)
鶴が話せたら、色んな歴史を語ってくれるでしょうね。

「義経」の最後は、本当のところ、どうだったの?
な~んて聞きたいね~

merryさん、コメントありがとうございます。

私は鶴は長生きだから・・・なんて思って
しまいましたよ(笑)
本当、実際のところ義経の最後は
どうだったのかその鶴に聞いてみたい
ですね~

しずか さん

こんばんは。

これまた深いお話ですね。

幕末まで伝説的に残っているとは。。

しかし、頼朝の義経への仕打ちとは対照的はお話ですね。

感動さん、こんばんは!
コメントありがとうございます。

同じ兄弟でもこんなに想いが違うものでしょうか?
しかし、意外なところに頼朝ゆかりの池が
ありました。

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