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2010年5月 4日 (火)

兜神社

鎧の渡し跡から東京証券取引所へ向かうと日本橋川の辺りに兜神社があります。ビルの合間にひっそりと建っていますが、商業の神様として有名な神社です。
兜神社世話人会の方によってまとめられた「兜神社」の由来という冊子をいただいて来たので抜粋します。

江戸時代

1845年、「楓川鎧渡古跡考」の地図に、鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源ともいわれている)と兜塚が描かれており、当地の鎮守として、また魚河岸に出入りする漁民により信仰を集めていた。

明治4年

東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧神社と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時、株戸塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は、鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。

明治7年

お祀りする祭神に変更があって、祭神・源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町一丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲稲荷神社の境内摂社である福神社より、大国主命と事代主命のご分霊を勧請して合祀した。

明治十一年

東京証券取引所の設立に伴い、当取引所が兜神社の氏子総代となり、以来証券界からの信仰を集めるようになる。

昭和二年

日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の六十二の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。

昭和四十六年

高速道路の建設に伴い、旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造、向拝付きの社殿を造営し現在に至っている。

とこのような経緯があったそうです。

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源義家」カテゴリの記事

コメント


しずかさん

 いつもコメント有難うございます。

 江戸から明治。そして大正、昭和、平成。
歴史を紐解くというのは、趣がありますよね。
(^○^)

 またお立ち寄りください。

ぽちッ、ポチっ。

前向きな心と人のぬくもりさん、こんばんは!

コメントありがとうございます。

ここが義家ゆかりの神社だということだけでなく、

神社の由来を知ることができて良かったです。

おはようございます♪♪

兜神社、・・・・・・。
素敵なショットと解説から、様子、雰囲気、伝わってきました。

ちょっとした歴史ロマン、伝わってきました。

いつも、コメント&応援ポチに、恐縮です。
応援ポチ♪♪

siawasekunさん、訪問ありがとうございます!

鎧橋、鎧の渡し跡とともに

この兜神社の存在をしることができて

収穫でした!


こんばんは。

ゴールデンウィークはいい天気でしたね。
(^○^)

またお立ち寄りください。

前向きな心と人のぬくもりさん、おはようございます!

いつも応援ありがとうございます。

GW中は良い天気だったにもかかわらず、私は

ずっと寝込んでいました。

外に出られず残念です(涙)


しずかさん

 いつも応援有難うございます。

 寝込まれていましたかあ。
大丈夫ですか。
大事になさってくださいね。
(^○^)

 また応援をよろしくお願いします。

前向きな心と人のぬくもりさんへ

ありがとうございます!

もうしばらく大人しくしています。

 しずかさん おはようございます。

 八幡様はもともと何なのか 不思議に思って調べてみました。源氏の氏神として始まったとばかり思っていたのですが、応神天皇が祖なんですかね。

 宇佐八幡宮と石清水八幡宮との関係が分かりませんでした。
しずかさん ご存じでしたら、お教えください。

 ではまた☆
 

コウさん、こんばんは!

宇佐八幡宮と石清水八幡宮の関係についてですが
社伝によると、

貞観元年(859)、行教が豊前国(現大分県)の宇佐八幡宮へ参籠したところ、八幡神が「我すべからず都近くに移座し国家を鎮護せん」と託宣(神のお告げ)した。
行教は都へ戻り、まず当時大安寺領であった山崎郷に奉安(現離宮八幡宮)したが、再び八幡神が現れ「男山(八幡市)に移座すること」を宣したという。
行教は、この経緯を朝廷へ伝えたところ、すぐさま清和天皇の命により男山山上に本殿三宇・礼殿三宇の宝殿を造営され、翌年の貞観2年(860)4月、八幡三所大神が正式に鎮座したという。

ということのようです。


こんばんは。

今日はいい天気でした。
気持ちいいですね。
(^○^)

またお立ち寄りください。

前向きな心と人のぬくもりさんへ

こんばんは!

こちらも良いお天気できたが、私はまだ

家の中で静養しています。

早く外に出て活動したいな~


しずかさん

 いつも応援有難うございます。

 体調はいかがですか。
無理をなさらず、ゆっくりとされるのも必要ですよ。
(^○^)

 またお立ち寄り、応援をよろしくお願いします。

ぽちッ、ポチっ。

ゆっくり!さん、こんばんは!

いつも応援ありがとうございます!

しばらくマイペースでやって行きますね。

 しずかさん こんばんは。
八幡様について 詳しく教えてくださって、ありがとうございましたm(_ _)m

 5月15日は、葵祭ですね。
私のブログで記事にしようと思いますが、一つ分からないことがあります。
なぜ 斎王『代』が主役なんでしょう。また、なぜ 斎王ではなくて斎王『代』なんでしょう。
 いつも質問ばかりですみません。ご存じでしたら、お教えください。
よろしくお願いします。

コウさん、おはようございます。

斎王と斎王代について

斎王代とは、その名称が示すとおり、斎王に代わるもの。斎王の代理なのである。斎王は「いつきのひめみこ」ともいい、「斎」は「潔斎して神に仕えること」をいう。斎王はかつて伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王、女王のことなのである。平安の昔、賀茂祭ともいわれる葵祭が国の祭であったころ、賀茂の宮には斎王がおられ葵祭に奉仕しておられた。斎王の住まわれる所を斎院といい、賀茂の斎院は現在の京都市上京区廬山寺通大宮の西北部にあったらしいが、祭の時には出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだったという。この時の斎王の華やかな行列を見ようと、都の人々はこぞって集まったと伝えられている。
始まりは平安時代の初期。810(弘仁元)年、嵯峨天皇は伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社にも斎王を置いた。この初代斎王、有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって賀茂の斎王は続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変=承久の乱で途絶えてしまった。以後葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。
それを昭和28年に祭の復活後、行列を華やかに盛り上げるため、葵祭行列協賛会などの努力で、斎王代を中心にした女人列を加えて今日に至っているのである。斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。
(京都新聞より)

ということで、斎王の「代わり」として、斎王代は、京都の未婚の一般市民の女性の中から選ばれることになっています。

長い歴史のなかで、脈々とつながる信仰心って、偉大なものですね。
そして、その神社の歴史をきちんと冊子にしているところがすごい。
この兜神社は、まるでビルの谷間のオアシスみたいですね。

merryさん、こんにちは!

兜神社は小さな神社なので、まさか冊子などが
置かれているとは思いませんでした。
これによって歴史の流れを知る事ができ
参考になりました。
保存会の方たちの努力が伝わってきます。

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