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2010年8月 9日 (月)

神戸の源平史跡を訪ねて(17) 能福寺「小川忠快」

境内には、壇ノ浦で捕らえられ、後に当寺の住職となった平教盛の子・小川忠快法印の墓(写真はありませんが)もあります。

忠快は、寿永2年(1183)に、全焼した堂字の再興に当たり、文治2年(1186)には、一ノ谷合戦の戦死者を追悼して千僧供養を営んだそうです。

忠快

忠快は、寿永2年(1183)に、全焼した堂字の再興に当たり、文治2年(1186)には、一ノ谷合戦の戦死者を追悼して千僧供養を営んだそうです。
忠快(ちゅうかい、応保2年(1162年) - 嘉禄3年3月16日(1227年4月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。法印、権大僧都。中納言律師と呼ばれる。字は「仲快」とも。
平清盛の弟・門脇中納言教盛を父として生まれる。覚快法親王の門下において、安元2年(1176年)に受戒。慈円や玄理に師事し、青蓮院に住する。平氏政権下において権少僧都まで進むが、寿永2年(1183年)に平家一門とともに都落ちし、二年後の元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、同年伊豆国へと配流される。
伊豆においては狩野宗茂の監視下で過ごすが、この間源頼朝や御家人からの帰依を受け、やがて文治5年(1189年)には帰洛。父教盛の所有地であった三条小川高畠の地を返却され、同所に宝菩提院を営む。建久6年(1195年)には頼朝に随って再度関東に下向。建仁3年(1203年)には慈円の譲りにより権少僧都に還任。さらに法眼、権大僧都と進んだ。
三代将軍源実朝の信頼も厚く、その招きにより数度に渡って関東を訪問している。一方、京においては後高倉院の帰依を受けるなど、朝廷・幕府の双方からの尊崇を集める高僧であった。承久年間には比叡山の横川の長吏にも就任している。その教学は後世「小川流」と呼ばれ、台密十三流の一派を形成した。
(Wikipediaより)

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コメント

平教盛は、清盛の弟でしたね。
平家の人の名前は、何度聞いてもややこしいですね(笑)

再来年、大河ドラマが「清盛」になったら、もういちどおさらいします(爆)

merryさん、こんばんは!

そう、平家の一門の名前ややこしいですね。

系図を眺めていても、よく混乱します。

再来年まで勉強し続けなきゃ!

 しずかさん こんにちは。

 平教盛の子であれば、壇ノ浦で捕らえらて よく殺されなかったものと ホッとしました。戦死者を追悼する人が 必要です。そういう方がいたからこそ、供養を営むことができたと思います。

 しずかさん 教えてくださって、ありがとうございました

 ではまた☆

コウさん、こんにちは!
コメントありがとうございます。
「小川」という名字ですと、平家の一門だとは
思いませんよね。
この方のお墓があることを、後から知ったので
写真を撮り損ねてしまいました。

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