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2010年8月

2010年8月30日 (月)

番組紹介 歴史秘話ヒストリア

歴史秘話ヒストリア 9月1日(水)22:00~22:43 NHK総合

「源義経 in the Dark」

ダークヒーローとしての義経の素顔に迫る!

http://www.nhk.or.jp/historia/schedule/index.html

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2010年8月29日 (日)

神戸の源平史跡を訪ねて(19)宝地院

宝地院は、安徳天皇の菩提を弔うため弘安(こうあん)二年(1279)に建立されたといわれてます。
荒田八幡神社のすぐ南に位置し、この付近一帯は平清盛の弟・池の大納言
頼盛の山荘があったところとされています。
高倉上皇の厳島御幸記に「・・・頼盛の家で笠懸流鏑馬など仕うまつらせ御覧ぜられる」とあり、頼盛の山荘の広さがうかがえます。

※宝地院は、幼稚園と併設されています。

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2010年8月19日 (木)

神戸の源平史跡を訪ねて(18)七宮神社

市バスの七宮神社前で降りるとすぐに七宮神社があります。

創建の年代や由来は定かではありませんが、築造伝説によると、清盛が経ケ島の築造の工事を進めるにあたり、暴風雨でなかなか進まないのを不審に思い、調べたところ、築造に必要な土砂を取っていた塩槌山に住む神が怒って暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し祀ったところ、無事築造できたといわれています。

「七宮」というのは、神功皇后が七番目に巡拝したからという説と、ご祭神の
大己貴命が、大国主命、大物主命、葦原醜男、八千矛神、大国玉命、顧国玉神という七つの名前を持つ神様であるからという説もあります。

神戸には、一から八の数字のつく神社、一宮から八宮まであります。
これらの八つの神社は生田神社をとり囲むように位置し、生田神社と関係の深い裔宮であると伝えられています。
神戸八社は天照大神と素盞鳴尊が、剣玉を交換して誓約した時に生まれたという三女神・五男神がそれぞれに祀られています。
神戸八社は港神戸守護神厄除八社とも呼ばれ、数字の順に巡ると(八宮巡り)厄除けになるとされています。

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2010年8月 9日 (月)

神戸の源平史跡を訪ねて(17) 能福寺「小川忠快」

境内には、壇ノ浦で捕らえられ、後に当寺の住職となった平教盛の子・小川忠快法印の墓(写真はありませんが)もあります。

忠快は、寿永2年(1183)に、全焼した堂字の再興に当たり、文治2年(1186)には、一ノ谷合戦の戦死者を追悼して千僧供養を営んだそうです。

忠快

忠快は、寿永2年(1183)に、全焼した堂字の再興に当たり、文治2年(1186)には、一ノ谷合戦の戦死者を追悼して千僧供養を営んだそうです。
忠快(ちゅうかい、応保2年(1162年) - 嘉禄3年3月16日(1227年4月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。法印、権大僧都。中納言律師と呼ばれる。字は「仲快」とも。
平清盛の弟・門脇中納言教盛を父として生まれる。覚快法親王の門下において、安元2年(1176年)に受戒。慈円や玄理に師事し、青蓮院に住する。平氏政権下において権少僧都まで進むが、寿永2年(1183年)に平家一門とともに都落ちし、二年後の元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、同年伊豆国へと配流される。
伊豆においては狩野宗茂の監視下で過ごすが、この間源頼朝や御家人からの帰依を受け、やがて文治5年(1189年)には帰洛。父教盛の所有地であった三条小川高畠の地を返却され、同所に宝菩提院を営む。建久6年(1195年)には頼朝に随って再度関東に下向。建仁3年(1203年)には慈円の譲りにより権少僧都に還任。さらに法眼、権大僧都と進んだ。
三代将軍源実朝の信頼も厚く、その招きにより数度に渡って関東を訪問している。一方、京においては後高倉院の帰依を受けるなど、朝廷・幕府の双方からの尊崇を集める高僧であった。承久年間には比叡山の横川の長吏にも就任している。その教学は後世「小川流」と呼ばれ、台密十三流の一派を形成した。
(Wikipediaより)

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2010年8月 2日 (月)

神戸の源平史跡を訪ねて(16)能福寺 平相国廟

清盛は、1168年2月11日、ここで出家し、浄海と名を変えました。
平家全盛時代は、「八棟寺」(やとうじ)という名で栄え、平家一門の帰依を集めたそうです。
清盛は、1181年2月4日に京都で亡くなりましたが、能福寺自伝によると、7日に洛東の愛宕で火葬され、遺骨は、清盛の遺言によって、当時の住職・円実(えんじつ)法眼が首にかけて京都から持ち帰り、能福寺の法華堂に納められたと伝えられています。(実際場所は確認されていません。)
かつては、清盛の供養塔(清盛塚)があったようなのですが、今はありません。
しかし、清盛の800回大遠忌記念に造られた
平相国廟があります。

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