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2010年10月28日 (木)

義仲寺(2)義仲と芭蕉

義仲の墓の隣には、松尾芭蕉の墓が立っています。

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義仲寺は、江戸時代中頃までは、義仲の墓と伝えられる塚に柿の木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていました。
芭蕉が最初にこの寺を訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、その年の暮れは当寺で過ごしたそうです。その後、義仲を敬愛していた芭蕉は、膳所の地をたいそう気に入り、度々訪れました。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句は、伊勢の俳人・山田又玄が、1691年、無名庵に滞在中の芭蕉を訪問した時のものです。

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1694年、旅の途中に大阪で死去した芭蕉は、義仲寺に葬ることを遺言し、門人の向井去来らにより、遺骸を木曽塚に運ばれ、埋葬されました。
「平家物語」の史跡めぐりをしていると、各地で芭蕉の句碑に出会います。
倶利伽羅峠の古戦場跡には、「義仲の寝覚めの山か 月悲し」という句碑が残されており、この句碑からも、芭蕉が義仲を敬愛していたことがわかります。

芭蕉翁墓

芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。
享年51歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第2土曜日に営む。(芭蕉翁墓の説明より)

翁堂

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正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。
翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。
翌7年に画像完成。
安政3年(1856)類焼、同5年再建。
現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年5月の第2土曜日に行う。(翁堂の説明より)

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コメント

>倶利伽羅峠の古戦場跡には・・・

倶利伽羅峠って、どんな所なんでしょうね。
いつか行ってみたいですね・・しずかさん?(笑)

そして芭蕉翁って言うけれど、51歳でなくなっているのですか。
今なら「ヤング」ですね(爆)

merryさん、こんにちは!

倶利伽羅峠・・・険しい道が続いている山中でしょうか?

芭蕉というと、御爺さんしか浮かびません(笑)

実は、若くして亡くなったのですね。

こんばんは。きょうは、義仲寺、三井寺、石山寺、の記事を読ましていただきました。
 索引がよく出来ているので、とても便利に使わしていただいています。
 芭蕉の奥の細道、最後の都市、大垣に行き、三井寺も石山寺も瀬田の唐橋も見ましたので(それぞれ、別の日ですが)、楽しく拝見させていただきました。
 とても参考になりました。

Minoruさん、こんばんは!

またまた過去の記事を読んでいただきありがとうございますm(__)m

Minoruさんも芭蕉の足跡を辿られたのですね。

芭蕉の跡を追うとかなりの距離を移動することになりますね(#^.^#)

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