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2010年10月

2010年10月31日 (日)

三井寺 弁慶の引き摺り鐘

三井寺駅から、琵琶湖疎水沿いに西に向かって10分ほど歩くと、三尾神社が見えてきます。そこを曲がると三井寺(園城寺)の仁王門に突き当たります。

琵琶湖疎水

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仁王門

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三井寺の名は、「天智・天武・持統」天皇の産湯に用いられたとされる泉があることから、「御井の寺」とよばれ、平安時代に円珍が密教の三部灌頂にこの水を使用し、「三井」とよばれたことに由来します。

壬申の乱に敗れた大友皇子の子である与多王が、父の霊を弔うために、「田園城邑」(でんえんじょうゆう)を寄進して寺を創建し、この文字にちなんで、天武天皇から「園城寺」という勅額を贈られたことが、園城寺の始まりとされています。

衰退していた園城寺を再興したのは、円珍で、園城寺に唐院を建て、唐から持ち帰った経典を納めました。円珍の死後、延暦寺では、円仁派と円珍派が対立。
993年、円珍派が、比叡山を降りて園城寺に入り、その後、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しました。
文禄4年(1595年)、三井寺は、秀吉の怒りに触れ、寺領の没収を命じられ、堂宇は強制的に移築され、廃寺同然になってしまいます。(当時の金堂は、延暦寺西塔釈迦堂として現存しています)
しかし、秀吉の死後直前、再興を許可し、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められました。(三井寺HP、Wikipedia、滋賀県歴史散歩参照)

食堂

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金堂

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北政所の寄進により、1599年に再建されました。

閼伽井屋

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閼伽井屋は、1600年の建立で、金堂西側奥に金堂と接して建っています。
寺名の由来となった泉が、今もなお音を立てて沸いています。閼伽井屋の正面内部には、左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻が施されています。

金堂の奥を上がって行くと、「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる奈良時代の梵鐘があります。
承平年間(10世紀前半)に藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると 「イノー イノー」(帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはひびが入り、乳(ち)が16個引きちぎられ、傷跡も残っています。
また、この鐘は、寺に良くないことがあるときには、にその前兆として鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、また良いことがあるときには自然に鳴るといった不可思議な現象が生じたとわれています。
現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されています。
(「義経ハンドブック」、三井寺HP参照)

弁慶の引き摺り鐘

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そして、鐘の横には、大きな汁鍋もありました。

弁慶の汁鍋

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弁慶の伝説に纏わるものは、豪快なものが多いですね。

また近江八景のひとつ三井の晩鐘は、弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎとして、鋳造されたそです。

三井の晩鐘

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三重塔

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元々は、室町時代初期に建てられた吉野の比蘇寺の塔でしたが、1601年、家康により移築されました。

三重塔の南側にには、円珍の廟所の唐院があり、三井寺のもっとも神聖な場所とされています。

唐院灌頂堂

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長日護摩堂

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こちらも石山寺と同様、境内が広く、時間に余裕がないと廻りきれません。
またの機会にゆっくりと訪れてみたいお寺のひとつです。

三井寺(園城寺) 大津市園城寺町246

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2010年10月30日 (土)

石山寺

京阪石山寺から瀬田川沿いを歩いて10分。石山寺の東大門に突き当たります。

東大門

仁王門、山門、総門とよばれる東大門は、1190年、頼朝が寄進したとされ、1600年に淀殿によって大修理が行われました。

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石山寺は、西国三十三カ所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の命により、良弁僧正によって開かれました。古くは、朝廷、皇族、貴族の信仰が篤く、頼朝紫式部淀殿島崎藤村、松尾芭蕉ともゆかりのある寺です。

四季ごとに花が楽しめることから、「花の寺」ともよばれています。この季節は、萩が見ごろになっていました。

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広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)の奇岩、怪奇岩がそびえています。

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本堂

正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。

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正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。
本堂にある「源氏の間」は、紫式部が「源氏物語」の構想を練り、書き始めた場所と伝えられています。
          
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多宝塔

源平の乱にあたって頼朝の命を受けて戦った中原親能は、石山寺の毘沙門天に戦勝を祈願し、事の成就に感謝して勝南院を建立しました。
このとき頼朝は、乳母であり親能の妻でもあった亀谷禅尼の請によって、多宝塔(国宝)を寄進しました。日本最古の多宝塔で、一階が方形、二階が円形の建築様式です。
屋根は宝形造で、曲線美の優美さが特徴。内部の柱や天井の周りには仏像や草花などの絵が描かれています。日本三大多宝塔の一つ。
多宝塔後部にある月見亭からの瀬田川の眺めは、特に9月の中秋の名月の頃が一番とされ、近江八景のひとつとして知られています。

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鐘楼

多宝塔の下にある鐘楼も頼朝の寄進とされています。
入母屋造の檜皮葺の屋根で、梵鐘は重要文化財に指定されています。

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頼朝・亀谷禅尼の供養塔

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これから秋が深まると、境内の紅葉が真っ赤に染まるのでしょうね。
またそんな景色をゆっくり見に訪れたいです。

(滋賀県石山観光協会HP、「滋賀県の歴史散歩」参照)

石山寺 大津市石山寺1-1-1

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2010年10月29日 (金)

今井兼平の墓

今井兼平は木曽義仲と乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で、木曽の四天王とも呼ばれていた人物です。
義経軍に追われた義仲が死に場所を求めて行く途中、首を取られてしまうと、兼平は、自ら太刀先を口に加え、馬から真っ逆さまに飛び降り、自害して果てました。
この話は、謡曲「兼平」の素材となって語られています。

謡曲「兼平」

木曾に住む僧が、木曾義仲の霊を弔おうと、義仲が討ち死にした粟津に行く途中、矢橋の浦で柴を積んだ老船頭の船に乗せてもらいます。粟津に着くと船頭が消えてしまいますが、それは、義仲とともに命を落とした忠臣、今井四郎兼平でした。夜、回向をする僧の前に甲冑姿の兼平が現れ、主君と自分の弔いを頼み、と同時に「自害の手本」を見せた、兼平自身の壮絶な最後について語り始めます。

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江戸時代に兼平を尊敬する膳所藩の本多俊次が、兼平の霊を弔うために、この墓を建てました。

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現在の墓は、今井家末裔によって建てられたもので、墓石には「今井四郎兼平」と刻まれています。
(「滋賀の風景」「義経ハンドブック」「滋賀県観光情報」参照)

今井兼平の墓   滋賀県大津市晴嵐2-4-16

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2010年10月28日 (木)

義仲寺(2)義仲と芭蕉

義仲の墓の隣には、松尾芭蕉の墓が立っています。

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義仲寺は、江戸時代中頃までは、義仲の墓と伝えられる塚に柿の木があるだけの小寺だったといわれ、木曽塚・無名庵ともよばれていました。
芭蕉が最初にこの寺を訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った元禄2年(1689年)で、その年の暮れは当寺で過ごしたそうです。その後、義仲を敬愛していた芭蕉は、膳所の地をたいそう気に入り、度々訪れました。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句は、伊勢の俳人・山田又玄が、1691年、無名庵に滞在中の芭蕉を訪問した時のものです。

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1694年、旅の途中に大阪で死去した芭蕉は、義仲寺に葬ることを遺言し、門人の向井去来らにより、遺骸を木曽塚に運ばれ、埋葬されました。
「平家物語」の史跡めぐりをしていると、各地で芭蕉の句碑に出会います。
倶利伽羅峠の古戦場跡には、「義仲の寝覚めの山か 月悲し」という句碑が残されており、この句碑からも、芭蕉が義仲を敬愛していたことがわかります。

芭蕉翁墓

芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。
享年51歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸の筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第2土曜日に営む。(芭蕉翁墓の説明より)

翁堂

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正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。
翁堂は蝶夢法師が明和6年(1796)10月に再興。
翌7年に画像完成。
安政3年(1856)類焼、同5年再建。
現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和6年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年5月の第2土曜日に行う。(翁堂の説明より)

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2010年10月27日 (水)

義仲寺(1)山吹塚・木曽塚・巴塚

JR膳所駅より琵琶湖方面に五分ほど行ったところに、義仲寺があります。

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義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、後に源義経・範頼軍に追われ、粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことに由来し、近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。

境内に入るとすぐに山吹塚があります。

山吹塚

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山吹は義仲公の側女。
元は、JR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事のため、この地に移されました。

山吹は義仲の妻そして妾とも云う
病身のため京に在ったが義仲に逢わんと大津まで来た
義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われる
その供養塚である
元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである
(山吹供養塚の説明)

JR大津駅の前に山吹御前を祀った祠と句碑が立っています。

山吹地蔵

大正十年八月大津駅がここに建設させるまで この地一帯は秋岸寺という古いお寺でありました。
その昔木曽義仲が粟津が原で鎌倉軍勢と戦って敗れ、今井兼平等多数の部下とともに戦死した時、愛妾山吹御前は京洛から義仲を慕ってはるばる逢坂山を越えてここまで来ましたが、逢うことができず秋岸寺境内の竹薮の中で敵刃に倒れたのであります。
後世有志が薄幸の山吹を弔うために境内に地蔵尊を刻んでお祀りしていましたが駅の新設と同時に寺は移転し地蔵尊は鉄道宿舎の主婦達の手によって祀られてきたのであります。
昭和50年駅舎改築を機にりっぱな祠を建ててここに祀ることになり、誰いうことなく山吹地蔵と呼ばれております。(大津駅長 大津市観光物産課)

句碑 「木曽どのをしたひ山吹ちりにけり」

山吹塚の奥には、巴塚があります。

巴塚(供養塔)

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木曽義仲の愛妻は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが 義仲が強いての言葉に最期の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという
それより何処ともなく立ち去り信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う
(巴塚の説明より)

三浦義一翁歌碑

   巴

「かくのごとき をみなのありと かつてまた おもひしことは われになかりき」

「としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みづうみのうへを わたりゆく月」


巴塚と仲良く並んで、隣には義仲の墓が立っています。

義仲公墓(木曽塚)

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土壇の上に宝篋印塔をすえる。
芭蕉翁は木曽塚ととなえた。
義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年1月の第3日曜日に営む。

朝日堂

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義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。 義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平公、芭蕉翁ほか合わせて31柱の位牌を安置する。
現在の朝日堂は、昭和54年(1979年)11月改築されたものである。

木曽八幡社

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木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。
昭和51年(1976年)社殿鳥居を併せ新造、11月13日夜、遷宮の御儀を行った。

こじんまりとした境内ですが、石碑をはじめ句碑などがたくさんあり、見所の多いお寺です。

義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12 

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2010年10月26日 (火)

粟津の番所跡(膳所城勢多口総門跡)

粟津は、木曽義仲の最期を遂げた地です。
義経軍に攻められた義仲は、巴御前を逃がし、兼平と二人になりました。
義仲は、自害する場所を求め、粟津の松原へ馬を走らせます。
江戸時代になると、ここに番所が建ち、旧東海道を通って、京都へ向かう旅人を監視していました。

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以前は粟津の番所跡建物があったそうですが、今では膳所城下の南の入り口にあたる勢多口総門の位置を記す標柱がマンションの前にあるのみです。

この石碑を探すにあたって、ガイドブックに掲載されていた住所を手がかりに探したのですが、石碑の場所が移転したために、なかなか見つからず、犬を散歩している方に聞いてようやくわかりました。
「粟津の番所跡」でなく、「膳所城勢多口総門跡」で検索すれば出てきますね。

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2010年10月25日 (月)

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる全長260mの橋。
宇治橋、山崎橋とならんで、日本三名橋・日本三古橋のひとつとされています。
瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われました。

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源平合戦では、義経&範頼軍と木曽義仲軍の戦の舞台となりました。
範頼軍と義経軍が宇治川を渡ったと聞いた義仲は、今井兼平を瀬田の唐橋へ派遣しました。
兼平は、瀬田橋の橋板をはずして守っていたといわれています。

瀬田の唐橋 大津市唐橋町

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2010年10月24日 (日)

源内塚

守山市の中心市街地に、石仏の薬師如来を祀る小さなお堂があります。
地元では、「お薬師さん」と呼ばれ、病気治癒を願う人々が毎日参拝に訪れているそうです。この薬師堂は、平安末期の地侍の首塚に建てられたものといわれ、その地侍の名が「源内兵衛真弘(げんないひょうえまさひろ)ということから「源内塚」とも呼ばれています。

平治元年(1159年)の十二月二十七日、当時十三歳の源頼朝は、平治の乱に敗れて、京から東国へ敗走する途中、仲間とはぐれて一騎で守山宿に入りました。
馬上で居眠りしながら進んでいると、宿場にいた源内兵衛真弘が落人である頼朝の首を獲ろうと襲いかかりましたが、頼朝は「髭切り」と呼ばれる名刀で源内を両断にしました。
村人は、源内を哀れんで埋葬し、塚をつくったのがこの首塚です。塚の正面に向かって、左側の石仏が「首塚」と言われ、今日まで守り継がれています。
また塚の前にある丸い石は、探し物などに霊験があり、軽く持ち上がると願いが叶うと言われていて、現在も参拝者が絶えません。(守山市教育委員会)

こちらの史跡へは、ブログ仲間のmerryさんに連れて行っていただきました。
ガイドブックには紹介されていない地元の方にしかわからないような史跡です。

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2010年10月23日 (土)

宗盛塚 平家終焉の地

野洲町大篠原は、平家終焉の地であります。
国道8号線から一歩細い道を入った奥に、ひっそりと墓標が立っています。

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壇ノ浦で、平家一門を倒した義経は、宗盛・清宗父子を捕らえ、頼朝に報告するため、鎌倉へ向かいますが、手前の腰越で留められてしまいます。
鎌倉入りを許されず、京に戻る途中、頼朝の命により、宗盛父子を斬首。
鏡の宿を過ぎたここ篠原が平家終焉の地になりました。

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っていますが、義経が自ら元服した「鏡の宿」を血で穢すのを避けて、わざと通り過ぎたと伝えられています。

平家終焉の地           宗盛の墓    清宗の墓

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平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野州市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄弟平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将平宗盛とその子清宗を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野州町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり父子の首を洗ったといわれ、「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。(野州市観光物産協会)

 
蛙不鳴池および首洗い池

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西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。昔は横一町半(約二二〇m)あった。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。最近までその形を留めていた。
(野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会)

宗盛塚の前には、花や水などのお供え物があり、800年以上経った今でも参拝者が後を絶ちません。

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2010年10月22日 (金)

烏帽子屋五郎太夫の屋敷跡

「鏡の宿」白木屋に宿泊した義経は、追っての目を欺くため、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服することを決心しました。
白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫(えぼしやごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を注文します。
源氏は烏帽子の頂を左方に折り返して作る左折を用い、平家は右折のものを用いていましたが、当時は平家の全盛期で、源氏の烏帽子は御法度でした。
五郎大夫は左折を折ることに躊躇いながらも、義経の願いを受け入れました。
現在は五郎大夫の屋敷はなく、民家裏側の荒地で残っています。
(滋賀県観光情報参照)

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ここは、国道より一歩裏側に入ったところにあり、看板が表に向いていないので、見つけにくかったです。

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2010年10月21日 (木)

鏡の宿 義経宿泊の館(白木屋跡)

鏡は平安末期より、鎌倉、室町時代までは宿場としての賑わいをみせていましたが、江戸時代に入ると、「守山宿」と「武佐宿」の間の宿となってしまい、宿場の指定から外されてしまいました。
しかし、本陣、脇本陣も置かれ、皇族、将軍家の御名代をはじめ多くの武士や旅人の休憩の宿場町としての役目を果たしてきました。
和宮様も、この本陣でしばらく休まれていることが記録に残っているそうです。

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本陣の東隣りが「源義経宿泊館跡」で現在は畑地となっており、、中央に石碑が建てられています。

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承安4年3月3日に京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江(滋賀県竜王町)の「鏡の宿」に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長であった澤弥伝(さわやでん)の「白木屋」の旅籠に泊まりました。
当時は。藁葺きの屋根でしたが、現在は台風のため壊れてしまい、石碑のみとなっています。
昭和30年代までは義経にあやかる男児の「とがらい祭り」の斎場として使われていました。

義経宿泊の館

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沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。牛若丸はこの白木屋に投宿した。
義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが、現在では鏡神社宮司林氏が保管してゐる。西隣は所謂本陣で、元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である。
その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である。

(鏡景勝会建立)

とがらい祭り(義経祭り)

十二月の二の午の日は夕刻より源義経主従の御霊を招き火焚きの神事を行う「とがらい祭り」がある。かつては澤弥伝屋敷の「白木屋」で神事を行っていたが、澤家の屋敷が朽ちてからは鏡神社の社務所で執り行われる。
この祭りは小学生までの男児が主役となり、老中が中心となって祭りの準備をすすめる。
子供たちは太鼓と鉦を打ち鳴らし「とがらい まがらい まがあったら とがらい」と囃しながら集落を廻る。義経公にあやかり、子供たちが勇気のある立派な成人に成長する願いを始め、鏡の里の繁栄を祈念する神事で、鏡特有の義経祭りである。
因みに当日は子供たちのいたずらが、多めに見てもらえる楽しい一日でもある。

(鏡神社由緒より)

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2010年10月20日 (水)

鏡神社(3)八幡神社

鏡神社の階段をのぼった右手、御幸山の上り口に、鏡神社の境内社・八幡神社があります。

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この社には応神天皇と義経さまが合祀されています。

応神天皇は五世紀頃の天皇で誉田別尊(ホムダワケノミコト)ととも言われ、兵法にすぐれ国や学術技芸を栄えさせた長寿の天皇とされてるゆえ、義経さまに合い通じる神と共に合祀されたものではないかということです。
また、この八幡神社は、鏡神社の境内社であるため、京都・鞍馬の方角に向けられているそうです。

主神は武勇の神として信仰篤く源義家始め、源氏の崇敬する神で、源義経公と合い通じて後に合祀されているが、この社は西を向き御鎮座されているのは源義経公の幼少時鞍馬を忍ぶ所以でもある。

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2010年10月19日 (火)

鏡神社(2)烏帽子掛の松

義経が元服の際、参拝し、源氏の再興と武運長久を祈ったといわれています。
神社の参道には、烏帽子を掛けたといわれる松の幹がありますが、明治6年の台風で倒れてしまい、現在は、幹の部分のみが、石垣の上に置かれ、仮屋根を被せられた状態で、保存されています。

 烏帽子掛けの松

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承安四年三月三日鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのであった。
明治六年十月三日台風により破損したため幹の部分を残して保存し後世に伝えるものなり(鏡神社)

謡曲「烏帽子折」と鏡神社

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 謡曲「烏帽子折」は、鞍馬山を脱出して奥州に向かった牛若丸が、その途次での元服の地鏡の宿と、盗賊退治をした赤坂の宿での出来事を一続きにして構成された切能物である。
 この鏡神社は、平家のきびしい追手をのがれるため東男に変装し、俄に左折りの烏帽子を作らせて、自らを源九郎義経と名乗って元服したところと伝えられている。
 即ち、謡曲「烏帽子折」の前半の場面の舞台となった所である。
 此の地を出立の後、赤坂の宿で熊坂長範に襲われるが、これを退治して奥州へ下った勇壮な謡いが後半の場面となっている。
この二つの全く異った二つの場面は、牛若丸の守刀「こんねんどう」によってつながりを見せている曲なのである。(謡曲史跡保存会)

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2010年10月18日 (月)

鏡神社(1) 由緒&本殿

義経元服池から3分ほどのところにある鏡神社

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第11代垂仁天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅国の王子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持したと伝えられています。
本殿は三間社流造り、こけら葺で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています。(竜王町観光協会HPより)

鏡神社 由緒

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 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅国の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC31)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
 天日槍は持ち来たる神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。
鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
 延喜の御世には大嘗会に鏡餅を勧請した火鑕の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女にも所縁の地である。
現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
 承安四年(1174年)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊まり境内宮山の岩清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。
鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した武将元服の地である。
以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。
義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は十一月の二の午夕刻に男児を主役に斎行される。
 大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。
以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。
飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祭り七月十日を例祭とする。

 鏡神社本殿 
Img_0977_b  Img_0978_c Img_0971_b Img_0980_b  

 三間社流造の庇に建具を設けて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く、古式流造が一層優美に発達したものである。
即ち、向拝の柱間を三間に構え、階段を三間通しとしたものは県下に現在例が少ない。
また、屋根は杮葺で、母屋の正面三間及び両側面の前の間を幣軸板扉構とし、前室の正面は格子戸引違い、側面は板戸引違いになっているが、ここに花挟間格子戸を建てる例が少なくない。
妻飾は、虹梁上に豕扠首を組み、組物は円柱上に舟肘木、前室及び向拝は出三斗組、中備に彫刻入りの蟇股を入れ、室町時代特有の彫刻手挾を用いるなど、正面の装飾は豊富である。
建立年次の記録がないが、蟇股は、湖東町の春日大社本殿(文安元年=1444年)、泰荘町の大行社本殿(文安4年)によく似ており、ほぼ同時代の建立と考えられる。
(平成4年1月 竜王町教育委員会)

 また義経が元服の際、使用したとされる盥の底板が現在も残っています。
これは白木屋の沢弥傳(さわやでん)家が代々家宝として残してきましたが、昭和5年に家系が絶えたため、現在は鏡神社で保管されています。
底板が半月板のようになっているのは、戦時中出征される人が武運を祈り、お守りとして
少しづつ削り取って戦地へ持って行かれたためと伝えられています。

鏡神社 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289

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2010年10月16日 (土)

義経元服池

金売り吉次と供に、東国へ向かう途中に近江の宿へ入った義経は、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意します。
そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて、前髪を落とし、元結の凛々しい侍姿を池の水に映し元服をしたと伝えられています。
これが元服池といわれています。
道の駅・「かがみの里」の前に、義経元服の地の看板があり、
左に行くと元服池、右に進むと鏡神社です。

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歩いてすぐに、池と石碑があります。

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この池は、浦山の湧き水がしみ出てきているもので、水道が整備されるまでは、付近の人家の飲料水として使用されたほど美しい水とのこと。昔から旅する人々も喉を潤したものだそうです。

石碑の説明によると

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父は尾張の露と消え、母は平家に捕へられ、兄は伊豆に流されて、おのれ一人は鞍馬山と歌はれし不遇の児 牛若丸は遮那王と称して、鞍馬山に仏道修行していたが、十一歳の時母の訓戒により、祖先の系図に感じ、平家を滅ぼし、父の遺志を達せんと堅い決意を抱いた。それより後は昼は書を読み文を習ひ、夜は僧正谷にて一心に武術に励み、時の来るのを待っていた。
京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった。
時に奥州と京都を往返する金売商人吉次に語ひ、承安四年三月三日の暁(昭和四十一年より七百九十二年前)住み慣れた鞍馬山に別れを告げ、機を見て兄頼朝に謁せんと 憂き旅の東下りの途につき、吉次、下総の深栖陵助頼重等と共に、その夜鏡の宿につき 吉次の常宿白木屋に投宿することになった。
牛若丸つらつら考へるに道中安全を期するには元服し東男に粧ふに若くはないと、吉次 陵助と語り、元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子をすすめた。
其の夜この池の清浄水を汲み取り、前髪を落飾し、源九郎義経と名乗った。
時に年十六歳 これが元服池の由来である。
かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った。
当地こそ武人としての義経出生の地である(鏡景勝会建立)

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2010年10月15日 (金)

道の駅・竜王 かがみの里

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かがみの里は、滋賀県竜王町の国道8号線沿いに位置する道の駅で、

かつて東山道、中山道で栄えた宿場「鏡の宿」があり、

源義経が元服した地と言われています。

烏帽子形がユニークな道の駅・かがみの里

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駅の内部には、義経さまの元服姿の絵が飾られていました。

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かがみの里のキャラクター 近江うし丸くん

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駅前には、義経さま&静御前の顔出し看板が

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かがみの里の中のレストランでは、鎌倉時代の武士の

祝い膳を再現した義経元服料理をいただけます。

(元服料理は3名からの予約)http://www.rmc.ne.jp/kagaminosato/restaurant/genpuku.html

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塩鰤(ぶり)のぬた、車えび、鴨とかぶら甘煮、塩鯖、
里芋・椎茸・川海老の煮物・赤・白かぶの漬物、里芋の揚げ物
地酒の白酒がついて、2100円。

(味付けは現代風にアレンジしてあるとのこと)

また、鏡の里では、毎年3月に元服式を行っています。

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2010年10月14日 (木)

妓王井川

祇王井川の水源跡の碑があるというので、訪ねてみました。

祇王井川は滋賀県で一番大きな川である野洲川から水を

引いているそうです。

近江富士とも呼ばれる三上山

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野洲川に架かる野洲川橋

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祇王井川水源跡の碑

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石碑の裏の説明には、祇王と清盛の名前が読み取れます。

現在は、ここより1Km近く上流から引かれているそうです。

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妓王井川の碑

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妓王井川は、このような細い川ですが、妓王の故郷を思う気持ちが

今でもこの川に注がれている感じがしました。

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2010年10月13日 (水)

妓王屋敷跡

妓王寺から数分のところに、妓王屋敷跡があります。

屋敷跡に曲がる道には↓の看板があります。

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この看板を過ぎるとすぐに屋敷跡の碑が見えてきます。

予想していたよりも敷地が広い。

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ここに、祇王祇女の母・刀自が住んでいたことから、

この地は祇王の故郷とされています。

以前は、祇王村(義王村)もあったそうです。

この一帯には、祇王の名のつく学校や地名が残っていて、

野洲小学校の柵には、清盛と妓王のレリーフがありました。

Img_0891_c

町のあちこちに祇王の名を見るたび、祇王が今でもこの地に生きている

感じがしました。

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2010年10月12日 (火)

妓王寺

「平家物語」に登場する白拍子の姉妹、祇王・祇女の故郷の野洲からスタートです。

JR野洲駅の北約3kmにある浄土宗の寺院・妓王寺を訪れました。

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祇王・祇女姉妹は、この地に居館を構えた橘次郎時長の娘として生まれました。
時長は保元の乱で戦死。祇王は・祇女は、母の刀自と供に京に出て、白拍子となりました。
祇王は、平清盛に仕えることになり、清盛の寵愛を受けました。
水不足で苦しむ故郷の人々のために、清盛に水路を引くことを願い出ると、清盛はその願いを受け入れ、5年の歳月をかけた難関工事の末、12キロに及ぶ用水路を完成させたのでした。
その用水路のおかげで、村の水不足は解消し、近江でも有数の米どころとなりました。
しかし、同じ白拍子の仏御前の出現で、清盛の心を奪われ、祇王は屋敷を追い出されてしまいます。

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出家した祇王は、嵯峨に移り住み、庵で晩年を過ごし、38歳(35歳という説も)の若さで亡くなりました。
後に、妓王井川の恩恵に与った村人が、祇王の菩提を弔うために、このお寺を建てました。

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祇王、祇女、刀自(祇王、祇女の母)、仏御前の木像があります。
(実際には見ることはできませんでしたが、その写真がこれです。)

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境内には供養塔があります。

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ところで、「祇王」「妓王」という表記がありますね。
本来、「祇」は土地の神、「妓」は芸妓、芸者の意味がありますが、
「祇王」「妓王」では、妓は芸妓、祇は出家の意味として
使われているのではないかという説があります。
「祇王」は、「平家物語」や謡曲「二人祇王」の登場人物、
お寺では、京都の祇王寺
野洲の祇王井川、祇王村、祇王小学校
「妓王」は、野洲の妓王寺、妓王屋敷跡、妓王井川の碑
「義王村」は、祇王村と改称する前の名前に使われています。

実際は本当にそうなのか地元の方に尋ねてみたところ、
昔は読み書きが出来る人が少なかったことから、
次第にいろいろな字が使われるようになったのではないかと
いうことでした。

所在地  滋賀県野洲市中北90 

アクセス 名神栗東ICまたは竜王ICから20分
      JR琵琶湖線「野洲駅」下車 バス 10 分 江部下車徒歩15分

料金   200円(要予約)

時間   9:00~16:00

お問い合わせ 野洲市観光物産協会 TEL:077-587-3710     

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2010年10月10日 (日)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(10)大河ドラマ「江」の舞台・長浜散策 その参

浜京極を北上し、知善院に到着

知善院

秀吉が、長浜城を築城した際、小谷城から移して、鬼門を守らせたと

されています。

本堂には、阿弥陀如来像が安置され、左手には大阪城落城の際に

持ち出された秀吉の木像が安置されています。

Img_1360_b Img_1362_b  

北国街道を南下しながら、お買い物タイム

ガラス製品や、陶器をGET 

 壁美術館  秀吉の茶亭門           常夜灯

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 黒壁ガラス館  札の辻本舗 

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翼果楼

こちらのお店で、郷土料理として人気のある焼き鯖そうめん

いただきました。

こってり味なのかと思っていましたが、食べてみると意外にあっさり。

十分に煮込まれた鯖の味がそうめんに染み渡って美味しかったです。

これなら、鯖が苦手という人にも大丈夫そうですね!

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このように長浜の街を一周し、夕方の電車で帰路につきました。

一泊二日の急ぎ足の旅でしたが、予定したコースをすべて

まわることができ、とても充実した旅行になりました。

今回滋賀の旅をプレゼントしてくださった滋賀県観光交流局さま、

同行&ガイド役を引き受けてくれた

大河ドラマの舞台を訪ねて」のmerryさん

最後まで記事を読んでくださった皆様

どうもありがとうございました。o(_ _)oペコッ

今回訪問したのは、滋賀のほんの一部のエリアであり、

まだまだ訪ねてみたいスポットがたくさんあります。

旅の目的を変えれば、いくつでもコースができることでしょう。

また機会をつくって滋賀を訪れたいと思っています。

この回をもちまして、近江路・歴女ブロガーの旅紀行を終了し、

次回からは、滋賀県の源平史跡についてより詳しい記事を

書いていきたいと思いますので、引き続きお楽しみください。

今後も応援よろしくお願いしますm(_ _)m

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2010年10月 9日 (土)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(9)大河ドラマ「江」の舞台・長浜散策 その弐

長浜八幡宮 

源義家が、京都の岩清水八満宮の御分霊を祀ったのが始まりと

されています。

戦国時代に荒廃していたのを、秀吉が手厚く保護しました。

4月に行われる長浜曳山祭りは、当八幡宮の祭礼です。

Img_1305_b Img_1315_b Img_1311_b Img_1312_b

長浜八幡宮に隣接した舎那院

空海の創建と伝わり、こちらも秀吉により、復興されました。

芙蓉の寺として知られています。ちょうどこの時期、境内に咲き誇る

芙蓉の花を目にすることができました。

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ながはま御坊表参道を通って大通寺へ

大通寺

真宗大谷派(東本願寺)の別院で、一般に「長浜御坊」の名で親しまれ

東本願寺から伏見城の遺構を移して伽藍が整えられたとされています。

伏見桃山城の遺構と伝わる本堂や大広間、長浜城の追手門を移築した

脇門(薬医門)など、建造物の多くが、国あるいは市の重要文化財です。

広間や新御座の壁画・襖絵などの障壁は、狩野山楽・山雪、円山応挙

によるもので、その庭園は国の名勝に指定されています。

客殿である含山軒、蘭亭には、枯山水と池泉式の庭園があります。

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ながはま御坊表参道を戻り、大手門アーケード

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曳山博物館            海洋堂フィギュアミュージーアム黒壁   

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長浜名物のっぺいうどん

Img_1435_b Img_1436_b Img_1301_b    

ウィンドーショッピングをしながら浜京極を北へ向かいます。

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2010年10月 8日 (金)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(8)大河ドラマ「江」の舞台・長浜散策 その壱

再び長浜到着

午後は来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の舞台・長浜の街を歩きます。

長浜観光に便利な長浜浪漫パスポート「浅井三姉妹手帖」が発売されています。

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秀吉の城下町として開かれた長浜は、北国街道沿いの街として栄え、

今でもその面影を町並みの中に残しています。

その中の旧所・名所を訪ねてみましょう。

長浜駅東口からスタート!

秀吉と三成出逢いの像

Img_1187_c Img_1185_b

秀吉が祀られている豊国神社

秀吉の没後、長浜の町民が建立。

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戦国武将の幟が

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駅の西口へまわり、豊公園を通って行くと、3層5階の城郭風の

建物が現れます。

長浜城は、秀吉が長浜の領主となった天正年間に築いた城。

現在の建物は、1983年に再興されたもので、中は歴史博物館に

なっています。

長浜城歴史博物館では、湖北の文化や歴史が学べます。

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湖岸道路から明治ステーション通りに進むと、現存する日本最古の

駅舎である旧長浜駅舎が現れます。

長浜鉄道文化館・北陸線電化記念館とあわせ、長浜鉄道スクエア

よばれています。

Img_1407_b Img_1408_b

その向い側には、 明治天皇の安在所として建てられた慶雲館

あります。

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この先で入館料200円を払うと

Img_1393_b   

小川治兵衛作の池泉回遊式庭園が見られます。

Img_1398_b Img_1399_b Img_1401_b Img_1405_b Img_1404_b

これだけ見られて、200円とは安い!

毎年2月から約1ヶ月開かれる盆梅展では、多くの人々で

賑わうそうです。

慶雲館を出て、明治ステーション通りを東に進むと、

地ビールの店の長浜浪漫ビールがあります。

今回は寄る時間がありませんでしたが、いつかぜひ地ビールの味を

楽しんでみたいです。

Img_1409_b

ここを過ぎると、左手には舟板べいの旧商家が現れます。

舟板べい

北国街道沿いには、今も港町の風情を残す舟板塀・紅穀格子

虫籠窓の家が残っています。

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馬つなぎ石

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これより北国街道に入り、右折します。

長浜名物・豊公もなかのお店を通り過ぎると、神明神社があります。

長浜八幡宮が、かつて八幡町にあった時には、この神明神社は、

現在の八幡宮の場所にありました。

秀吉が長浜城主になり、八幡宮を今の宮前町に移す時に、

この地に移ってきたそうです。

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ここから北に少し歩くと右手に妙法寺があります。

小谷城下から移った寺で、秀吉の子・秀勝の菩提寺と伝わっています。

お寺の縁起によると、元は浅井氏・小谷城下の長尾寺という

天台寺院でしたが、天正元年(1573年)、湖北の領主となった秀吉の

長浜築城に伴い、長浜城下に移りました。

その頃、秀吉に男子が誕生したことを祝って、長浜城下の町民に

砂金をふるまい、これを元に、長浜曳山祭りが始まったとされています。

Img_1420_b Img_1422_b  

「滋賀県の歴史散歩」によると、かつてあった秀勝像とされる肖像画は

消失してしまい、秀勝の墓所とする確実な根拠や、長浜で秀吉に男子が

誕生したという記録は残っていないとのことです。

次は長浜八幡宮へ

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2010年10月 7日 (木)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(7)竹生島から義経隠れ岩へ

竹生島港から今津港行きの便が予定通り出ることに ヽ(´▽`)/

良かった~!!

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10:00 船に乗り込むと、私たちが乗り込むとすぐに出港 w(゚o゚)w

竹生島発10:10⇒今津港着10:40 の予定でしたが・・・

予定時間より10分も早い!

(でも、このわずか10分が後で思えば、貴重な10分になったのでした。)

おまけに船内を見渡すと、私たち二人だけ~?

貸切状態だ~ と子供のようにはしゃいでいるうちに 

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10:38 今津港着

(10分早く出たわりには遅かったな~)

今津港からJR近江今津駅まで徒歩約5分なのですが、

10:43発の湖西線にどうしても間に合いたい!

なぜなら、一時間に一本しか走ってないから (゚ー゚

ということで、今津港からJR今津駅までDASHすることに;

駅員さんに、電車が既にホームに到着しているから、

切符は後で買うようにと言われ、

改札を駆け抜けてホームに ι(´Д`υ)アセアセ

どうにか間に合いました!

JR近江今津からJRマキノへ (乗車時間7分)

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そこからはバスの便が悪いので、海津大崎までタクシーを利用

しかし・・・・・・

タクシーの運転手さんが「義経隠れ岩」の場所を知らなかった~

(ノ∀`) アチャー

海津大崎は、琵琶湖沿岸4Kmにわたり、ソメイヨシノ約600本が

桜のトンネルをつくる桜の名所で有名なところ。

お花見のためでなく、ひとつの岩を見にタクシーを走らせる人は

ほとんどいないでしょうね~ 

良かった~ 観光協会の方に地図をもらっておいて!

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湖岸の遊歩道を10分ほど走っていると・・・

あ、あの岩じゃないの~?

確信はありませんでしたが、とりあえず車を停めてもらい、

海岸に降りてみると

やっぱり!!

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これこれ!!

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義経隠れ岩

文治3年、義経主従が大津より北陸に都落ちする時、

海津着船の際、敵に知られないようにしばらく隠れていたと

伝えられる岩です。

謡曲「安宅」の中でも謡われています。

(上の説明より)

岩の大きさは、高さ1.7m幅2mほどで、近寄ってみると、

たしかに岩の下方に空洞がありました。

小柄な義経さまなら隠れることができたのかな~?(゚ー゚)

それだけ見ればもう満足!

運転手さんは、さぞ不思議に思ったでしょうね。

岩に喜ぶ私を見て ( ゚д゚)ポカーン

そしてまたマキノ駅へリターン

次はまた長浜へ戻るため、近江塩津への電車を待ちます。

JRマキノ湖西線(近江塩津行)⇒JR近江塩津⇒北陸本線でJR長浜駅へ 

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2010年10月 6日 (水)

近江路・歴女ブロガーの旅(6)竹生島クルーズ&竹生島観光

長浜港琵琶湖汽船乗り場へ到着

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ここから竹生島へのクルーズがスタートです。

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琵琶湖汽船長浜港発9:00⇒竹生島着9:30

朝一の便の乗船です。

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長浜港から竹生島まで30分

いざ出港

 Img_1216_b  

海と違って、波が荒くなく、風に煽られることのない湖のクルーズ

穏やかなクルーズを満喫していると、係りの方がデッキまでやって来て

帰りの今津港に向かう船が、風が強いために今津から

出港できずにいると知らされびっくり!Σ(`0´*)

こっちはこんなに穏やかなのに?

話によると湖西の方は、日本海からの風が強く、度々電車も遅れるとか。

10:10に竹生島を出港予定の今津行きが欠航になったら、

長浜港へ戻る便に乗るようにと・・・ヾ(*゚A`)ノ

10:00にそのことを確認するため、当初予定していた

40分間の島の観光を30分に変更することに Σ(゚д゚;)

となればこの後のコースはどうしよう?

などと、あたふたしているうちに竹生島が見えてきました。

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30分のクルーズはあっという間。

無事に竹生島に到着 

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拝観料400円を払って・・・ここからが大変ヾ(*゚A`)ノ

祈りの階段とよばれる167段の階段を上がらなければ(@Д@;

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わ~思っていた以上にキツイ!

もう膝が笑ってる~ (;´д`)トホホ…

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ふ~(;;;´Д`) やっと階段を上りきった~ ヽ(´▽`)/

宝厳寺  742年に行基が開いたお寺で、西国三十三所観音霊場の第三十番札所。

本堂(弁財天堂)に到着。江ノ島、厳島と並ぶ日本三弁財天のひとつ。

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三重塔
江戸時代に落雷により焼失しましたが、350年ぶりに復元されました。

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宝物館からの眺めは素晴らしい!

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唐門・観音堂 桃山時代を象徴する唐門。

内部は千手観音菩薩が納められている観音堂。

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Img_1254_b  Img_1277_b

ここからは都久夫須麻(竹生島)神社です。

湖水を支配する浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭神とする古社。

「つくぷしま」は竹生島の古名だといわれています。

本殿 伏見城の建物が神殿として寄進されたもの。(現在修復中でした)

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Img_1274_b Img_1263_b   

ここに平経正の名前を発見!

経正は清盛の甥にあたり、琵琶の名手として知られています。

木曽義仲討伐の際、竹生島で戦勝祈願をしたと伝えられています。

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かわらけ投げ 素焼きの小皿に名前と願いを書いて投げ、鳥居をくぐると願いが叶うとされています。

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舟廊下 秀吉のご座船「日本丸」の船やぐらを利用した廊下。

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ここまで見学して、一気に階段を折り、帰りの船を確認。

さあどうなることやら・・・ 

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2010年10月 5日 (火)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(5)長浜の朝

二日目 9月30日(木)

二日目はあいにくのお天気で

朝から雨がしとしと・・・

でも、せっかく早起きしたのだからと、朝食の時間まで

ホテルの周りを散歩して来ました。

午後から長浜の街を一周するので、下見も兼ねて(o^-^o)

駅前通りから北国街道に曲がるとこんな古い町並みが

Img_1167_b

さすがに6時台は人がいない。

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豊公祭りの幟が

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浄琳寺      黒壁ガラス館

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昼間は人がたくさんいるのだろうな~

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この黒壁ガラス館を東に曲がると

大手門通りのアーケード街

Img_1177_b

ショッピングが楽しめそうだな~

そうこうしている間に朝食タイム

7:00 ホテルに戻り、バイキング方式の朝食をとる。

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和食は、おにぎり(トッピングを自由にチョイス)、だし巻き卵

漬物、味噌汁など

洋食は、パン、野菜サラダ、ジュース、紅茶、コーヒー

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和食、洋食の両方をちょっとずつ楽しみたい時に

バイキングはいいですね。

朝食後は、ロビーの宿泊者専用のPCで情報収集

PCが利用できるというサービスも旅先ではとても助かります。

天気予報によると、一日を通して雨の模様 (;ω;)

傘持ってきてよかった~(^-^;

やはり旅に傘は必需品ですね。

8:00 チェックアウトを済ませ、長浜駅の方面へ

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駅前で「江」のラッピングバスに遭遇 

Img_1188_b

長浜駅の東口から琵琶湖側の西口へ出て

豊公園を通り抜け、長浜港へ向かいます。

豊公園では、彼岸花が鮮やかな色を添えていました。

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お城の形をした長浜城歴史博物館

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豊公園自由広場

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さあもうすぐ長浜港へ到着です!

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2010年10月 4日 (月)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(4)湖北の味を堪能!

電車の遅れがあり、予定より少し遅れて19:40頃長浜に到着。

今回一泊二食付きのプランで泊めていただいたのが

グリーンホテルYes長浜駅前館

JR長浜駅東口よりわずか徒歩1分。

Img_1166_b

黒壁スクエア、長浜港、豊公園にも近いロケーションにあります。

この日の夕食は、ホテルの中にある和食処の「湖心亭」で、

湖北の味を堪能(*゚▽゚)ノ

まずはビールで乾杯(*^m^)

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本場近江牛御膳をいただきました。

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海老豆      お刺身      鴨の燻製   茶碗蒸し

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近江牛の陶板焼

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なんと肉のお替りまで付いて(v^ー゜)ヤッタネ!!

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近江牛は初めて食べましたが、やわらかくて、とろけるような

舌触りでした(*^-^)

これで3500円とはビックリです(・∀・)イイ!

食事が終わり、ホテルの部屋へ

机の上には無料のミネラルウォーターが

こういう細やかなサービスが嬉しいですね~(o^-^o)

この日は疲れたので、早目に寝ることに

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少し広めのベッドでゆったり過ごすことができました(*^m^)

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2010年10月 3日 (日)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(3) 京阪電車おおつ1day切符の旅

一日目の午後13:00 かがみの里を発って守山へ

寛永19年(1642年)江戸幕府は、中仙道を整備し、

守山宿を67番目の宿場としました。

中仙道の町並み

Img_0900_b

中仙道沿いには、今も宿場町を思わせる建物が残っています。

Img_0903_b

守山の源内塚

頼朝に逆討ちにされた源内兵衛弘が村人に供養されたという塚です。(左側)

Img_0908_b

JR守山からJR石山まで電車で移動。

京阪線との連絡通路には芭蕉像が

Img_1011_c

おおつ1day切符 石山坂本線一日乗り放題 (500円)で、

京阪線沿いの史跡巡り

ちょっとした待ち時間もラッピング電車を見て楽しんでいました。

Img_1137_b

龍馬さんも!

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唐橋前下車 

東国へ攻め上がる義経・範頼軍と義仲軍の戦った瀬田の唐橋

瀬田川の攻防戦は、戦の勝敗を決めるところとして、

「唐橋を制するものは、天下を制す」といわれてきました。

Img_1018_b Img_1019_b

石山寺下車 

頼朝、淀殿、芭蕉ともゆかりのある石山寺

駅を降りるとこの塔のモニュメントが

Img_1020_b  

駅からてくてく歩いて10分ほどで東大門(仁王門)に到着。

Img_1021_b

1190年、頼朝が寄進したと伝えられ、1600年には

淀殿によって大修理が行われました。

多宝塔の下には、巨大なケイカイ石が

これが寺名の由来になっているそうです。

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多宝塔、鐘楼も頼朝寄進とされています。

Img_1055_b Img_1044_b

石山寺は別名「花の寺」とも呼ばれています。

この季節は、秋の七草のひとつ萩に彩られていました。

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京阪膳所下車 

木曽義仲ゆかりの義仲寺

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ここには、義仲と愛妾・巴御前が眠っています。

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三井寺下車 三井寺

琵琶湖疎水を眺めながら歩くと

Img_1100_b

弁慶橋と書かれたような橋が

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やはり三井寺は、弁慶ゆかりの寺だからなのか・・・

駅から歩いて約10分で仁王門に到着

仁王門

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三重塔

Img_1117_b

弁慶の引き摺り鐘を見学

比叡山と三井寺の争いの際、弁慶が鐘を比叡山まで引き摺って

持ち帰り、鐘を撞いたところ、「イノー(帰りたい)」と響くので、

弁慶が怒って谷に投げ捨てました。

その時ついたとされるヒビや引き摺ったような跡が残っています。

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おまけに汁鍋もΣ(゚д゚;)

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弁慶の伝説に纏わるものは、豪快なものが多いですね。

また近江八景のひとつ三井の晩鐘も見逃せません。

弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎとして、鋳造されたそう。

Img_1104_b

とにかく三井寺は広い

まだまだ紹介しきれないので、また後日ゆっくりと・・・

粟津下車 

膳所城勢多口総門跡(粟津の番所跡)

粟津は、木曽義仲が最期を遂げた地。

家臣の今井兼平と二人になった義仲は、自害する場所を求めて

粟津の松原へ馬を走らせました。

Img_1138_b

その後、江戸時代になり、番所が建ち、京へ向かう旅人を

監視していたといいます。

膳所城は、関ヶ原に勝利した家康が、膳所崎に築かせた水城で、

今は膳所城勢多口総門跡の石碑がポツンと残されています。

京阪石山下車 

義仲の家臣・
今井兼平の墓へ

Img_1147_b

義仲が討ち取られると、兼平も自ら太刀先を口に銜えて

馬から飛び降り、壮絶な最期を遂げました。

18時をまわったとlころで、一日目の日程を無事終了

あ~疲れた~ι(´Д`υ)アセアセ

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2010年10月 2日 (土)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(2)義経元服の地・鏡の里

竜王・かがみの里へ向かいます 

その前に、大篠原の平家終焉の地「宗盛塚」へ

Img_0940_b

頼朝の命を受けた義経の部下により、斬首された

平宗盛・清宗父子が国道8号から細い道を入ったところに、

ひっそりと眠っています。

Img_0943_b

右が宗盛公の塚です。

義経様のせめてもの配慮で、父子の胴は、ひとつの穴に埋められたと

いいます。

さていよいよ「義経元服の地」として知られる竜王町へ

義経元服の地は、諸説あります。

「平治物語」では、鏡の宿、「義経記」では熱田神宮となっていますね。

兄・頼朝の母が、熱田神宮の宮司の娘であったので、自分が

元服するのにふさわしい地であると思ったのではないかと・・・

熱田神宮の記事はこちら

鏡の宿に伝わる話では、鞍馬寺を抜け出した遮那王様は、

兄を訪ねるために、金売吉次と供に、京から東国へと向かう途中に

この鏡の宿に立ち寄ったとされています。

Img_0952_b_2

烏帽子形がユニークな道の駅・かがみの里

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駅の内部にはこんな絵が

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義経さまの元服姿を描いた絵なのでしょうね。

でも何となくお顔が中井貴一さんに似ているような・・・

一瞬、頼朝さまかと思ってしまいました(^-^;

かがみの里のキャラクター 近江うし丸くん

Img_0999_b_3 

駅前には、義経さま&静御前の顔出し看板が

Img_0949_b_2

もちろん私も顔を出して記念ショットを撮りましたよ

どっちになったのか・・・って?

もちろん両方にですよ~

この幟を見ただけでも、テンションアップ

Img_0953_b

このかがみの里を中心として、国道8号沿いに、義経元服の地の史跡が

並んであります。

義経さまが、元服の際、前髪を落とし、侍姿を池の水に映したという

元服池

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義経さまが参拝したという鏡神社

Img_0967_b

境内社の八幡神社には義経さまが祀られています。

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義経さまが烏帽子を掛けたという烏帽子掛松

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義経さま御一行が泊まったされる旅館・白木屋の跡碑

義経宿泊の館跡

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義経の烏帽子を折った烏帽子屋 五郎太夫の屋敷跡

今はこんな荒地になってますが(;´д`)トホホ…

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ここは、看板が表から見えないところにあるので、わかりにくいです。

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国道を一歩裏に入れば、このような景色が広がっています。ヽ(´▽`)/

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そろそろランチタイムになったので、道の駅・かがみの里に戻り

駅の中のレストランで、鎌倉時代の武士の祝い膳を再現した

義経元服料理をいただきました。

(元服料理は3名からの予約)http://www.rmc.ne.jp/kagaminosato/restaurant/genpuku.html

静御前の間に通され

Img_1001_b

待っていたのは

Img_1002_c_2

このような豪華料理!( ^ω^)おっおっおっ

塩鰤(ぶり)のぬた、車えび、鴨とかぶら甘煮、塩鯖、

里芋・椎茸・川海老の煮物・赤・白かぶの漬物、里芋の揚げ物

地酒の白酒がついて、2100円。

(味付けは現代風にアレンジしてあるとのこと)

義経様になった気分でいただきました!

鏡の里では、毎年3月に元服式を行っていて、

女の子も参加しているようですね。

13歳以上なら年齢制限がないとのこと(*^-^)

これも一度体験してみたい (・∀・)イイ!


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2010年10月 1日 (金)

近江路・歴女ブロガーの旅紀行(1)妓王の故郷・野洲

一泊二日の近江路の旅から昨夜戻って来ました

細かい記事は後でアップすることとして、

まずは、二日間のハイライトから

一日目  9月29日(水) 快晴

この日の朝は、一番の新幹線で米原へ

琵琶湖線網干行に乗り換え、8:12 野洲に到着。

共に「大河ドラマの舞台を訪ねて」をやっているブロガー仲間の

滋賀在住のmerryさんが車で案内してくれることになりました。

ここから近江の旅がスタートです。

野洲駅から車で、「平家物語」で有名な美しい白拍子の姉妹

妓王・妓女(祇王・祇女)の故郷へ向かいます。

野洲川にかかる橋

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野洲小学校には、清盛と妓王をデザインした柵を発見!

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のどかな田園地帯の一角にある妓王寺を見学

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こちらの拝観には、予め予約が必要なので、ご注意ください。

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清盛の寵愛を受けた妓王が、旱魃で苦しむ故郷・野洲に

清盛に頼んで水路を掘らせ、妓王に感謝した村人が

妓王の菩提を弔うために建てたお寺といわれています。

妓王、妓女、母の刀自、仏御前の木像

(木像は見ることはできませんでしたが)

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境内には供養塔が残っています。

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妓王寺のすぐそばには妓王屋敷跡

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次に妓王井川周辺をまわってみました。

祇王井川の水源地跡の碑

Img_0881_b_2

妓王井川の碑

Img_0886_b_2 Img_0887_c

野洲の町のあらゆるところに「妓王」の文字が。

いかに妓王が、この町に貢献したかがわかりますね。

そうそう、「妓王」なのか「祇王」なのか・・・はまた後日

次は竜王・かがみの里へ向かいます

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