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2010年10月23日 (土)

宗盛塚 平家終焉の地

野洲町大篠原は、平家終焉の地であります。
国道8号線から一歩細い道を入った奥に、ひっそりと墓標が立っています。

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壇ノ浦で、平家一門を倒した義経は、宗盛・清宗父子を捕らえ、頼朝に報告するため、鎌倉へ向かいますが、手前の腰越で留められてしまいます。
鎌倉入りを許されず、京に戻る途中、頼朝の命により、宗盛父子を斬首。
鏡の宿を過ぎたここ篠原が平家終焉の地になりました。

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っていますが、義経が自ら元服した「鏡の宿」を血で穢すのを避けて、わざと通り過ぎたと伝えられています。

平家終焉の地           宗盛の墓    清宗の墓

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平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野州市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄弟平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将平宗盛とその子清宗を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野州町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。

現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり父子の首を洗ったといわれ、「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。(野州市観光物産協会)

 
蛙不鳴池および首洗い池

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西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。昔は横一町半(約二二〇m)あった。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。最近までその形を留めていた。
(野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会)

宗盛塚の前には、花や水などのお供え物があり、800年以上経った今でも参拝者が後を絶ちません。

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コメント

五郎太夫の屋敷跡は分かりませんでした。

平家終焉の地は、哀れを感じる史跡でした。

天下をとってもなかなか永く続くことはないのですね。
weepweepweepweepweep

投稿: ラメール | 2010年10月23日 (土) 01時30分

ラメールさん、おはようございます。

ここはわかり辛いですよね。
私たちは、近くの農作業をしている人に
聞いて、教えてもらいました。
地図を見ただけでは見つけられないですね。

投稿: しずか | 2010年10月23日 (土) 10時43分

大きな池があり、その前にポツンと胴塚がある・・
そこにあわれな平家の親子が眠る。

なんか人々の哀しみを誘うような光景ですね。

だから800年余り経っても、人の心をひき付けるのでしょう。


投稿: merry | 2010年10月25日 (月) 16時34分

merryさん、胴塚という言い方がまた哀れですね。

首と胴がバラバラに埋葬されてるとは・・・

草津の首塚にもいつかお参りに行きたいと思っています。

投稿: しずか | 2010年10月25日 (月) 21時20分

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