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2010年11月21日 (日)

神戸の源平史跡を訪ねて(25)明泉寺 平知章の墓

明泉寺は、行基が、水不足に悩む農民のために造成した蓮池の源である苅藻川の水が枯れないように、大日如来像を造り祈願した寺で、通称大日寺といわれています。

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一ノ谷の合戦の際、平盛俊がこの地に陣を張り、義経の来襲に備えたため、戦火で焼け、観応二年(1351)赤松判官光範公により、今の地に復興しました。

生田の盛りの大将軍・平知盛は、息子の知章、郎党の監物太郎頼方と三騎で落ちるところを、児玉党に包囲されます。
16歳の知章は、父に組み付こうとする敵の前に立ち塞がり、相手を討ち取りましたが、敵の童にやられてしまいます。監物太郎も討死にしますが、その間に知盛は、ひとり沖の船に逃れることができました。

知章が、父の知盛を助けようとして討ち死にしたのが、当寺の北の谷、モンナ池の辺りで、藪の中にあった塚を、神戸史談会会長・木村昇三氏等の手によって、境内に移したといわれています。

知章の墓(五輪塔)の横には、平知章孝死の図という説明版があります。

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本堂前には、知章御思出の松が植えられています。

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平知章」カテゴリの記事

コメント

この記事をみると行ったことを思い出します。

16歳の息子:知章は、親をかばって源氏方にやられます。

親は、生き延びて船までたどりつきます。

流れでそうなったのかもわかりませんが、

親が子供を見殺しにした、そんな感じです。

当時としては、それが普通の考え方なんでしょうか。

ラメールさん、こんにちは!

コメントありがとうございます。

>親が子供を見殺しにした、そんな感じです。

私もそのように感じます。

今なら、親がバッシングを浴びるでしょうね。

でも、何とかして一人でも生き延びるのが

武将としての生き方だったのでしょう。

これは美談でもつらい話ですね。
現代人の「命の価値観」では推し量れないものがありますが、でもやっぱり知盛もつらかったでしょうね。
そのつらさをバネに、壇ノ浦まで戦ったという事でしょうね。

merryさん、コメントありがとうございます。

自分のこどもが犠牲になって

普通は尋常でいられるはずがないですからね。

一族のために自らの命を差し出した知章のことは

現代の若者には理解しがたいでしょう。

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