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2010年11月

2010年11月26日 (金)

清盛役、松ケンに決定!

再来年のNHK大河ドラマ「清盛」の清盛役に

松山ケンイチさんが決定したそうです!

若手の人気俳優が選ばれるのだと思ってはいましたが、

松山さんとは思いつかなかったな~

幼少の頃から晩年までの清盛を、松ケンがどのように演じるか

楽しみですね!

NHKドラマトピックス http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/66034.html

日刊スポーツ http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/82425/full/

中日スポーツ   http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2010112602000156.html

産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/101125/tnr1011251701009-n1.htm

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2010年11月21日 (日)

神戸の源平史跡を訪ねて(25)明泉寺 平知章の墓

明泉寺は、行基が、水不足に悩む農民のために造成した蓮池の源である苅藻川の水が枯れないように、大日如来像を造り祈願した寺で、通称大日寺といわれています。

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一ノ谷の合戦の際、平盛俊がこの地に陣を張り、義経の来襲に備えたため、戦火で焼け、観応二年(1351)赤松判官光範公により、今の地に復興しました。

生田の盛りの大将軍・平知盛は、息子の知章、郎党の監物太郎頼方と三騎で落ちるところを、児玉党に包囲されます。
16歳の知章は、父に組み付こうとする敵の前に立ち塞がり、相手を討ち取りましたが、敵の童にやられてしまいます。監物太郎も討死にしますが、その間に知盛は、ひとり沖の船に逃れることができました。

知章が、父の知盛を助けようとして討ち死にしたのが、当寺の北の谷、モンナ池の辺りで、藪の中にあった塚を、神戸史談会会長・木村昇三氏等の手によって、境内に移したといわれています。

知章の墓(五輪塔)の横には、平知章孝死の図という説明版があります。

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本堂前には、知章御思出の松が植えられています。

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2010年11月16日 (火)

神戸の源平史跡を訪ねて(24)平盛俊塚

平盛俊は、平家方の武将で、父の盛国と共に清盛の側近を務めました。妻は厳島内侍。

一ノ谷の合戦で明泉寺に陣を敷き、源義経の鵯越の急襲により敗走中、源氏方の猪股小平六と組み、討死。

西門の敗戦を受けた北門の大将越中前司「平 盛俊」は、明泉寺から南へ逃げ延びる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなりました。双方むんずと組んで戦い、盛俊が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で二人が休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいてきました。近づく敵に気を奪われているうちに、盛俊は、則綱に襲われ首を討たれてしまいました。

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長田区名倉町に盛俊塚が、庄山町には盛俊の碑と墓が祀られています。

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2010年11月14日 (日)

神戸の源平史跡を訪ねて(23)氷室神社

市バスの夢野3丁目のバス亭を降り、坂道を北へ上って行くと、住宅地に囲まれた神社が見えてきます。

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この神社には、仁徳天皇が祀られています。
氷室神社の由来は、日本書紀によれば、約1600年前、仁徳天皇の異母兄・額田大中彦皇子が狩をしていた時、洞窟を発見し、村長に話したところ、「冬に取った氷を萱草で包んでおくと、夏になってもこの氷を使える」と聞き、仁徳天皇に氷を献上したことからきているそうです。

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「平家物語」によれば、義経が、三草山の戦いで、勝利したことを知った平教経が、氷室神社へ本陣を置いたとされ、ここにあった井戸を「陣場の井」と呼びました。
この付近は教経の別邸があったところと伝えられ、後白河法皇が幽閉されていたことがあります。
また、教経の兄・通盛とその妻・小宰相がこの地で今生の名残りを惜しんだことから、縁結びの神様としても人気を集めています。

また、弁財天の祠は、清盛が勧請した七つの厳島神社のひとつともいわれています。

神社の奥へ進んで行くと、今でも氷室が残っているそうですが、肝心なものを見逃してしまいました。crying

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2010年11月11日 (木)

舎那院 

長浜八幡宮の隣にある真言宗豊山派の寺で、弘仁5年(814年)、空海によって開山され、もとは、勝軍山法生寺という長浜八幡宮の学当でした。

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平安中期には源義家が東夷征伐の前に、ここで戦勝祈願を行ったといわれています。
信長の戦火のために焼失しましたが、安土桃山時代に豊臣秀吉が再建しました。
現在の本堂は、八幡宮の旧本地堂で、明治以降は、本尊の愛染明王坐像にちなんで、愛染堂とよばれていました。
寺宝には、木造阿弥陀如来坐像、絹本著色三月経曼茶羅図、絹本著色十六羅漢像があり、約3300平方メートルの境内には本堂、観音堂、太子堂、地蔵堂、護摩堂などの多くの堂宇が建ち並びます。
またフヨウの寺としても知られ、7月下旬から9月にかけて、境内一面に芙蓉の花が咲き揃います。(滋賀県観光情報HP、「滋賀県の歴史散歩」参照)

私が訪問した時、ちょうどフヨウが見頃になっていました。
長浜八幡宮の境内から繋がっているので、八幡宮のついでに立ち寄ることをお勧めします。

長浜市宮前町13-45

この記事をもちまして、滋賀の旅編を終了します。
最後まで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
次からは、また神戸の史跡巡りに戻ります。

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2010年11月 9日 (火)

長浜八幡宮

長浜八幡宮は延久元年(西暦1069年)、源義家が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮を勧請して創建したとされ、豊臣秀吉の庇護を受けて発展しました。
誉田別尊(ほむたわけのみこと)(応神天皇)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)を祭神とします。

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創建当時の社頭は、本宮の石清水八幡宮を凌ぐくらいであったといわれますが、その後兵火により社殿はほとんど消失されました。天正二年(西暦1574年)秀吉が長浜城になり、社殿の修復がなされました。この史実は、長浜曳山祭の起源とも言われています。
4月14日から16日に行なわれる長浜八幡宮の春の例祭・長浜曳山まつりは、国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年全国から数万人の観光客を集めています。

長浜市宮前町13-55

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2010年11月 6日 (土)

義経隠れ岩

JRマキノ駅からタクシーで義経隠れ岩へ
海外沿いを走ること10分、約2mほどの岩が見えてきます。
この場所は、ガイドブックにも載っていなかったので、
高島観光協会で地図をもらって、運転手さんに渡して連れて行って
もらいました。

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「義経の隠れ岩」(伝承)と言われている2メートル四方、高さ1.7メートル程の、かがんで人が隠れることができるぐらいの穴のあいた岩があります。源義経は、兄の頼朝に協力して、それまで権力をほしいままにしていた平家を亡ぼし、源氏の時代をつくりましたが、戦い方があまりにも上手で、人気が兄をしのぐようになったため頼朝に憎まれてついに追われる身になりました。そして、北国海道を人目につかないように奥州平泉の藤原秀衡を頼ってのがれて行ったのですが、義経たちがこの土地を逃げながら通りかかったのは、文治3年(1187)2月で、今から約800年前のことでした。義経たちや馬がこの岩に隠れたかどうかは分かりませんが、海津付近に上陸し、一時身を隠して北国へ落ちていったことは有名な義経の謡曲「安宅」(あたか)の一節にも謡われているように事実のようです。
(びわ湖高島観光協会)

高さ1.7m幅2mほどの岩で、海津大崎の少し手前の湖岸にあります。義経が兄の頼朝に追われる身となり奥州平泉に逃れる時、この土地を通りかかったといわれています。義経がこの岩に隠れたかどうかはわかりませんが、海津付近に上陸し一時身を隠して北国へ逃れていったことは謡曲「安宅」の一節に謡われています。
(滋賀県観光情報)

文治3年、義経主従が大津より北陸に都落ちする時、海津着船の際、敵に知られないようにしばらく隠れていたと伝えられる岩です。謡曲「安宅」の中でも謡われています。
(画像真ん中の案内板の説明より)

岩に近づいてみると、岩の下方に穴が開いているの確認できました。
小柄な義経さまなら、きっとここに隠れることができたのでしょう。

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2010年11月 5日 (金)

竹生島 「都久夫須麻神社」

都久夫須麻神社本殿

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私が行った時は、ちょうど修復中でしたが、本殿の説明によると、

本殿は、桁行五間梁間4間の入母屋造の桧皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。
慶長七年(1603)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造をしています。
両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が、内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。
折上格天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。

拝殿には、「平経正」さまの名を見つけました。

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かわらげ投げ

拝殿のびわ湖側に突き出たところにある竜神拝所では、かわらげに願い事を書き、鳥居へと投げるかわらけ投げが有名です。
投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。

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帰りの船の時刻の関係で、滞在時間がわずか30分となってしまい、慌しい見学になってしまいました。
次回訪問する時は、宝物館にも入ってみたいと思っています。

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2010年11月 4日 (木)

竹生島 宝厳寺(2)

宝物殿

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宝物館には、「平家物語」に出てくる琵琶の撥があります。
寿永2年(1183)平経正が木曽軍征伐の際、来島し、戦勝祈願の為、琵琶をひいたという撥です。

平経正・・・(たいらのつねまさ)平経盛の長男で、清盛の甥にあたります。弟には経俊、敦盛がいます。歌人としてまた琵琶の名手として名を挙げました。
幼少時代は、仁和寺で過ごしたという縁で、仁和寺五世門跡・覚性法親王から琵琶の銘器「青山」を下賜されるなど、寵愛を受ました。
義仲軍が攻めてくると、後白河天皇第二皇子・守覚法親王に名器を返上し、都落ちして、一の谷合戦で討ち死にしました。

能では「経政」の主人公として描かれ、また、琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に出てきます。


残念なことに、琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、経正ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、経正が青山を弾いた際に使用したとされる撥が納められているとのことです。

ちはやふる神に祈りのかなへばや、しるくも色のあらはれにけり  平経正

弁財堂から正面の石段を下りて来ると、観音堂があります。

観音堂は、慶長8年(1603)、豊臣秀頼が秀吉の遺命により、片桐旦元を普請奉行として、京都東山の豊国廟から移築寄進されたとするものです。

観音堂

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観音堂の入り口にあたる国宝の唐門は、檜皮葺きで、前後に唐破風を持ち、極彩色の彫刻や飾金具が施され、豪華絢爛な桃山様式の代表的遺構といえます。

唐門

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観音堂から都久夫須麻神社本殿に続く渡廊は、秀吉の日本丸と名付けられた御座船の材を利用したものとされ、舟廊下とよばれています。

舟廊下

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竹生島 長浜市早崎町1164

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2010年11月 1日 (月)

竹生島 宝厳寺(1)

長浜港から琵琶湖汽船で竹生島へクルーズ

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竹生島は、長浜市の湖岸から約6キロメートルにあり、周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルの琵琶湖上で沖の島に次ぐ2番目に大きな島です。
島の名前は「神の斎く(いつく)住居(すまい)」を意味し、その中の「つくすまい」が「つくぶすま」と変じ「竹生島」になったそうです。
また、「竹生島」という漢字は、竹が生えているからという説や、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙に似ていることから付けられたという説などがあるそうです。
明治時代の神仏分離令によって、弁才天を本尊とする「宝厳寺」と浅井姫命を祀る「都久夫須麻神社」に分かれています。

ここから祈りの階段と呼ばれる165段の石階段を上ります。

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瑞祥水

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五重石塔

宝厳寺の由緒は古く、聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、行基が来島し、四天王像をつくり、小堂に安置したのが始まりといいます。

竹生島流棒術発祥の地

平安時代後期、源平合戦に起源を持つこの流派は、流祖の難波平治光閑が信仰していた竹生島の弁財天にあやかり、その名をつけたと伝えられています。

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石段を上りきると、
厳島、江の島とならぶ“日本三弁才天”のひとつである弁天堂があります。平安時代以降、竹生島弁財天社として信仰を集めてきましたが、明治の神仏分離により、宝厳寺に属しました。

弁天堂

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三重塔

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江戸時代に、落雷により焼失しましたが、2000年に約350年ぶりに復元されました。

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初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間の形や各重笠石の反りの形状などから鎌倉時代の特徴が見られます。
五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは、全国で七基しかなく、これはその一つです。
豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが後補のものとなっています。

竹生島 長浜市早崎町1164

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