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2011年2月

2011年2月28日 (月)

東京の源平史跡 称名寺

府中駅から、徒歩約3分のところにある称名寺は、寛元3(1245)年、道阿上人一光大和尚開山の古刹。六孫王武蔵介であった源経基が、平将門征伐の際の館跡とされています。

清和源氏の祖とされる経基は、父の貞純親王が清和天皇の第6皇子ということで六孫王と呼ばれています。経基は、上司の武蔵権守の興世王とともに、足立郡司の武蔵武芝と対立をしました。その仲裁に入ったのが平将門です。将門の仲裁で、いったんは治まったのですが、武芝の一派が、経基の営所を包囲したことから、将門らが自分を討つのではないかと疑い、京へ逃げ帰り、天慶2年(939)3月3日彼らの謀反を朝廷に訴えました。
しかし将門らが、5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を、太政大臣・藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、経基は讒言の罪によって、左衛門府に拘禁されてしまいました。
天慶2年(939年)11月、将門は、常陸国府を占領。本当の乱を起こすことになります。
以前の誣告が現実となった事によって、経基は、それを功と見なされて従五位下に叙せられました。その後、将門の反乱の平定に向かいますが、既に将門が追討されており、帰京。weep
941年には、追捕凶賊使となり、小野好古とともに、藤原純友の乱の平定に向かいますが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来を捕らえるだけの功績しか残せず。bearing
しかし、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍になりました。

経基は、「天性弓馬の道に長じて武勇をもって知られ・・・」とされていますが、源氏の祖にしては、逃げ帰るとか手柄を取られてしまうとか、義経さまとはだいぶ違う感じがしますね。coldsweats02

京都の六孫王神社には、経基のものと伝えられる墓があります。

                             

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そして、気になったのが、江戸時代、享和1年(1801年)に、境内の竹林から発掘されたという「世良田徳阿弥親氏、応永一四年四月廿日」銘の墓碑のことです。

親氏は、新田義貞の一族の世良田氏の出で、南北朝の戦乱に破れ、時宗の僧となって諸国を放浪し、三河国松平郷で、在原信重の婿になり、松平親氏と名乗ったのが徳川家康の先祖と伝えられています。
この墓碑の銘文が真実であれば、世良田徳阿弥親氏が、徳川家の先祖ということになります。
しかし、「応永十四年」を「応永一四年」と表記することは、中世にはありえないことで、先祖作りの創作の可能性があるという見解がなされています。

松平 親氏(まつだいら ちかうじ、生没年不詳)は、室町時代初期、14世紀後半頃の三河国の武将で、江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物である。系譜によると、親氏は清和源氏の新田氏の支族で、南北朝時代の争乱で南朝方について没落した世良田氏(得川氏)の一族で、世良田有親の子とされている(文献によっては、「世良田親氏」「得川親氏」と表記されることもある)。
親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。徳阿弥は部下の石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(松平太郎左衛門少尉信重)の客人となった。松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平三郎親氏(次郎三郎と松も)と名乗ったという。平郷領主となった親氏は、郷敷城を築き、嫡子(兄弟説[2]もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いた。
親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深かったという。領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの寺社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかった。
しかし、上述したような親氏の出自と事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、証拠となる史料は無く、伝説の域を出るものではない。親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことができず、実在を疑う説もある。)(Wikipediaより)

はたして、世良田徳阿弥親氏は、徳川家の先祖、新田源氏につながるという説の真偽の程は如何に?

地蔵堂には、日限子育て地蔵が祀られ、子どもの守り本尊として日限を決めてお参りすれば願いが叶うということで信仰を集めています。

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称名寺には、経基の子孫にあたる八幡太郎源義家や、頼朝が奉幣などをし、崇敬をしたといいます。

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2011年2月24日 (木)

東京の源平史跡 大国魂神社

武蔵国の総社である府中の大国魂神社

景行天皇41年(111)5月5日、武蔵国の護り神として大国魂神を祀ったのが始まりとされています。
この地に武蔵国の国府が置かれて以来、国司が祭祀を執り行っていましたが、平安時代に各諸神を合祀する「総社」と呼ばれるものが置かれ、武蔵国では、大國魂神社がその総社となりました。
平安末期には、六か所の神社を合祀して「武蔵六所宮」と呼ばれるようになりました。

武蔵総社 大國魂神社

当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれ、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。(例大祭五月五日)

大國魂神社・府中市観光協会

源平関連の出来事としては、

●康平5年、前九年合戦平定の際、源頼義、義家父子が、ケヤキの苗千本を寄進した。(馬場大門のケヤキ並木の起源)
また、神前にスモモを供物として供したことから、後年この日とされる7月20日に毎年「すもも祭り」が行われるようになった。

●寿永元年に、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、政子の安産の祈願が行われた。

●文治2年源頼朝は、武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。

 (Wkikipedia参照)

その後、徳川家康が、関が原の戦いや、大坂の陣の戦勝祈願成就の御礼として馬場を献上し、本殿や拝殿、楼門を修築しています。
明治4年(1871)に武蔵総社大國魂神社と改称しました。

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御鎮座壱千九百年に向けて境内整備、宮乃咩神社、手水社の改築工事が始まっていました。

宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)

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頼朝政子の安産を祈願した神社。

主祭神名 天鈿女命

由緒

 この神社の創立は御本社大國玉神社と同じ景行天皇の御代(111年)であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神として崇敬されている。
 例祭日は七月十二日で、文治二年(1186年)源頼朝より武蔵国中の神職に天下太平の祈願を行うよう令して以来、毎年この日の夕刻より翌朝にかけて、国中の神職が参会し終夜神楽を奏し祈祷が行なわれた。この祭は青袖・杉舞祭と言われる。(今は国中の神職は参加しない)、また、頼朝の妻政子が当社に安産を祈願したという伝えもある。
 安産祈願の折に願いを託した絵馬を奉納し、無地願いが叶うと御礼に底のぬけたひしゃくを納める風習が今でも行われている。

          北多摩神道青年会

(説明板より)

相撲場

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毎年8月1日に、八朔相撲祭が行われる。

天正18年(1590)8月1日 徳川家康の江戸入城を賀し、この日を記念して天下泰平・五穀豊穣を祈る奉納相撲として始まったものである。

中雀門       拝殿

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東照宮

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元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営された。
徳川家康公歿後、駿河国久能山により下野国二荒山に霊輿を遷された時その途次、この国府の斎場に一夜逗留せられたのでその遺跡を後生に伝える為造営された。

4月30日~5月6日まで、くらやみ祭という大国魂神社最大のお祭りがあり、8基のお神輿と6張の太鼓が、甲州街道からお旅所までを練り歩きます。関東三大奇祭の一つであるこの祭りは本来、歌垣の性格を帯びていましたが、明治時代になってその淫靡な風習は改められ、、夜間に実施されていた祭礼の行事も昭和34年より夕刻の実施となりました。

※歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。


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2011年2月22日 (火)

東京の源平史跡 八幡太郎源義家の像

東京の友人に、府中の街を案内してもらいました。

府中の駅を出ると、国の天然記念物であるけやき並木が約500m続いています。1062年、源頼義、義家父子が寄進したといわれる歴史ある馬場大門けやき並木道です。

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源義家公とけやき並木

馬場大門ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から550m余北)大国魂神社の木製の一之鳥居が建立されていました。
現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されています。
ケヤキ並木の起源は源頼義・義家父子が奥州・阿部氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6年〔1051年〕から康平5年〔1062年〕までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられています。
現在のケヤキ並木は天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596年~1615年)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗を植えたのが始まりです。
その後、寛文7年(1667年)に老中 久世大和守くぜやまとのかみが府中宿の大火(正保3年〔1646年〕)で焼失した六所宮(大国魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植を行っています。
なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。
とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、9月晦日みそかまで5ヶ月にわたって開催されました。
ケヤキ並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されています。
毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。

大国魂神社・府中市観光協会(説明板より)

けやき並木を歩いていると、八幡太郎源義家公の像があります。

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の源頼信の孫。
頼朝、義経の先祖にあたり、前九年、後三年の役で安倍貞任、宗任と戦った。
京都の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。

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源義家公とけやき並木

国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062年)勝利の報賽として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
その後、徳川家康公により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9メートルに及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。
その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。
義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、7歳の時、岩清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に、源氏の武威の最盛期を迎えた。
このような大国、武蔵の国の国府であった府中、大國魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。
この「八幡太郎源義家公之像」が府中の歴史を伝え、永く市民各位の心に生き続けることを願いたい。
制作は、高岡市在住、勅許御鋳物師藤原朝臣喜多家第30代当主の三男、喜多敏勝先生 題字は、財団法人日本書道美術院審査員、鹿島敬帆先生の揮毫による。

平成4年3月28日
創立30周年記念事業
東京府中ロータリークラブ(説明板より)

上の説明にもあるように、若い頃の義家公をイメージしているだけあって、お顔が凛々しく、まさに若武者といった感じでした。

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2011年2月18日 (金)

東京の源平史跡 西久保八幡神社

東京・虎ノ門5丁目にある西久保八幡神社 寛弘年中(1004~1012)に、源頼信が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたりに創建したといいます。太田道灌の江戸城築城に際、現在地に遷されました。江戸八所八幡のひとつで、「八幡神社」「飯倉八幡宮」とも呼ばれています。

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源(多田)満仲の三男。
兄・頼光と同じく摂政関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕えた。甲斐守在任時に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと、藤原道長の四天王、或いは四天王と称された。
(Wikipediaより)

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今年の大河ドラマの主人公・江(徳川秀忠正室・崇源院)は、慶長5年(1600)、家康秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、寛永11年(1634)、そのお礼参りとして、社殿が造営しました。明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と呼ばれていました。

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都バスの「虎ノ門5丁目」のバス停のすぐ前です

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2011年2月13日 (日)

東京の源平史跡 牛天神北野神社

東京ドームから徒歩10分ほどのところにある文京区の牛天神北野神社

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この階段を上がると、境内があります。

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「牛」という名が付いているだけあって、牛型のものが目に付きます。
おみくじを結ぶところも牛型にくりぬかれていていました。

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ご祭神は、天神様こと菅原道真公。道真公は、大変牛を可愛がられていたといわれています。

撫で石

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境内にある撫で石は、源頼朝が、奥州へ藤原氏を征討に向かう途中、この石に腰掛けて休んだとされています。居眠りをしていると、牛に乗った道真公が現れ、二つの吉事があると告げました。翌年、その願いが叶ったので、1184年、この地に牛天神を創建し、夢の中の牛に似た石を御神体とし、大宰府天満宮より御魂を勧神されたと伝えられています。

牛天神HPの説明によると

「ガーゼを境内のお水で濡らし、ねがい牛の口元に飾って気を入れ、ビニール袋などに入れて持ち帰り、寝る際に枕の下に入れると、2つの願いが叶うと言われています。」

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撫でると願いが叶うということも、ここが発祥の地だそうです。

本殿の周りには、ちょうど梅が咲いていました。

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太田神社・高木神社は牛天神の境内にあり、芸能の神・天鈿女命と武の神・猿田彦命のご夫婦をお祀りしています。
芸能上達、開運招福のご利益があるとされています。

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2011年2月 8日 (火)

東京の源平史跡 品川神社

しばらく神戸の源平史跡が続きましたので、今日から東京の源平史跡を紹介致します。

品川神社は、東京都品川区北品川三丁目にある神社で、東京十社のひとつです。
文治3年(1185)に源頼朝が安房国州崎明神を勧請し、創建されました。

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天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸城に入り、翌19年11月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜りました。
また、本殿には、東海七福神の大黒天が祀られています。

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境内には、庖丁塚もあります。

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