東京の源平史跡 高安寺(2)弁慶硯の井
秀郷稲荷神社の奥には、「弁慶硯の井」があります。
頼朝の怒りを買い,鎌倉入りを許されなかった義経と弁慶が,京都に向かう途中、この地に居住した際、大般若経を書き写すために、境内にある井戸の水で墨をすったという伝説があり、「弁慶硯(すずり)の井」と呼ばれる古井戸跡が残っています。
弁慶硯の井
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秀郷稲荷神社の奥には、「弁慶硯の井」があります。
頼朝の怒りを買い,鎌倉入りを許されなかった義経と弁慶が,京都に向かう途中、この地に居住した際、大般若経を書き写すために、境内にある井戸の水で墨をすったという伝説があり、「弁慶硯(すずり)の井」と呼ばれる古井戸跡が残っています。
弁慶硯の井
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府中の高安寺は、京王線・JR南武線分倍河原駅より徒歩7分、旧甲州街道沿いにあります。
府中市の「片町」という町名は、当時、町の南側を高安寺が占めていたため、町が北側に片寄ってということに由来するそうです。
ここは、かつてムカデ退治や平将門討伐で知られる平将門を討伐した藤原秀郷(田原藤太)が武蔵守を務めていた頃の館の屋敷跡で、その後、屋敷後に見性寺という寺院が建てられたとされています。
また、鎌倉入りを許されなかった義経一行がこの寺に立ち寄り、弁慶が大般若経を書き写したと言われています。
当寺は武蔵国府の近くにあり、鎌倉時代末期から南北朝の戦乱の時代には、崖上にあり、要害の地に建っていたことから、合戦の本陣としても使われました。
元弘3年(1333年)には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構え、戦乱により寺が炎上し、見性寺は荒廃してしまいました。
その後、足利尊氏が、国の安泰と人々の平和を願って、全国に安国寺を建てました。武蔵国の安国寺が、この寺にあたります。その際、臨済宗の禅寺に改めて再興し、1348年に高安寺としました。
戦国時代には、小田原の北条氏の庇護も受けましたが、徐々に衰退。
慶長年間、青梅の海禅寺曹洞宗禅寺の7世関州徳光禅師によって再興され、曹洞宗となり、現在に至ります。
高安寺山門と仁王像
明治5年(1872年)の建立。
高安寺本堂
享和3年(1803年)の建立。木造平堂屋建て、屋根は寄棟造り銅版葺。
鐘楼
1858年に再建。
秀郷稲荷神社
藤原秀郷ゆかりの稲荷神社。
次回は、「弁慶の硯井」です。
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