野間大坊(1)源義朝の墓と血の池
野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。
白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。
大門はその時建立されたものです。
大門
本堂
本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。
鐘楼堂
平治の乱に敗れた義朝は、野間内海荘の荘司で、政清の舅である長田忠至の館にたどり着きましたが、恩賞目当ての忠致・景至父子の裏切りに遭い、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、殺されてしまいました。
義朝の墓には、義朝の最期の言葉「木太刀一本でもあらばかかる不覚はとらじ」と悔やんだという故事にちなみ、今でも多くの木太刀が奉納されています。
この墓の周りには、義朝や頼朝にゆかりのある人物またこの地で自害した織田信孝の墓があります。
鎌田正清夫妻の供養塔
正清は、政清の母が義朝の乳母だったことから乳兄弟として最も信頼された郎党であったといいます。
池禅尼の墓
池禅尼は、平家に捉えられた頼朝の助命嘆願をした平清盛の継母に当たります。
織田信孝の墓
織田信長の三男・信孝は、豊臣秀吉に敗れてこの地で自害しました。
血の池は、義朝の首を洗った池で、国に異変があると、池の水が赤くなると言い伝えられています。
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野間大坊の源義朝の墓と血の池!やっぱり無理しても愛知・岐阜の2泊3日
自家用車の旅ではこの美浜町へ行かねば成りませんね!
投稿: 四方續夫 | 2011年10月23日 (日) 06時23分
四方さま、お帰りなさい。
ここは電車だと不便なので、車の旅がお勧めですね。
ぜひ行程に組み入れてください。
次は本殿と庭園の紹介です。
投稿: しずか | 2011年10月23日 (日) 09時49分
義朝はさぞかし無念だったでしょうね。
野間内海荘って、どんな所かな、一度行きたいなと思っていたのですが、しずかさんに誘ってもらって良かったです。
投稿: merry | 2011年11月 5日 (土) 20時20分
merryさん、こんばんは!
ここはのんびり電車で遠足気分で行きましたね。
野間まではなかなか行く機会がないですから
付き合ってもらって良かったです。
投稿: しずか | 2011年11月 6日 (日) 21時56分