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2011年10月

2011年10月30日 (日)

野間大坊(2)本殿とお砂踏みの庭

本殿は伏見桃山城の一部を寛永年間(1624-1643)に移築したものといわれています。

本殿前の庭には本四国88ヶ所のお砂を埋めた「お砂踏み」があります。

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義朝の墓以外にも見どころの多いお寺でした。


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2011年10月23日 (日)

野間大坊(1)源義朝の墓と血の池

野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。

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白河天皇の勅願によって承暦年間(1077~1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。

大門はその時建立されたものです。

大門

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以後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展しました。

本堂

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本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。

鐘楼堂

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平康頼の墓

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平治の乱に敗れた義朝は、野間内海荘の荘司で、政清の舅である長田忠至の館にたどり着きましたが、恩賞目当ての忠致・景至父子の裏切りに遭い、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、殺されてしまいました。

義朝の墓には、義朝の最期の言葉「木太刀一本でもあらばかかる不覚はとらじ」と悔やんだという故事にちなみ、今でも多くの木太刀が奉納されています。

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この墓の周りには、義朝や頼朝にゆかりのある人物またこの地で自害した織田信孝の墓があります。

鎌田正清夫妻の供養塔

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正清は、政清の母が義朝の乳母だったことから乳兄弟として最も信頼された郎党であったといいます。

池禅尼の墓

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池禅尼は、平家に捉えられた頼朝の助命嘆願をした平清盛の継母に当たります。

織田信孝の墓

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織田信長の三男・信孝は、豊臣秀吉に敗れてこの地で自害しました。

血の池は、義朝の首を洗った池で、国に異変があると、池の水が赤くなると言い伝えられています。

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2011年10月15日 (土)

野間の長田屋敷跡と磔の松

平治の乱で清盛に敗れた源義朝は、頼朝らと東国へと向かいました。しかし、途中ではぐれた頼朝は平家に捉えられ、義朝は随行していた鎌田政清の舅で野間内海荘の荘司・長田忠致(おさだただむね)の屋敷で、恩賞目当ての忠致と息子の景致に入浴中に殺されてしまいました。

愛知県知多郡美浜町野間には、長田屋敷跡・磔の松跡地があります。

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忠致は、義朝の首を平家に引き渡し、壱岐守に任ぜられました。
しかし、尾張か美濃を望んでいた忠致は、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、再び源氏方に寝返りました。

頼朝は天下統一が成れば、軍功により美濃・尾張(身の終わり)を与えると約束しました。それを信じた長田父子は、平家討伐において手柄上げましたが、頼朝は論功行賞を与えるといって父子を捕まえ、松の木に逆さ磔にしたといわれています。
なお、長田父子は美濃国青墓の宿にて斬られたとの説もあります。

忠致の辞世の句 ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまわり

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2011年10月 4日 (火)

柴ヶ森

名古屋の弥富市柴ヶ森にある史跡「柴ヶ森

平治元年(1159)12月の「平治の乱」で平家に敗れた源義朝らは、青墓の宿(現大垣市)まで逃れてきたが、平家の追及が厳しいため、舟に積んだ柴の下にかくれた、知多の野間へ落ちていくことにした。途中、平家の検問を逃れ、松田(現立田村)で粥をごちそうになり、この地、二之江まできて、もう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。
このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められた。
また、川辺の柴は、芽を出し年々大きな森となった。これが「柴ヶ森」である。
記念碑の題字「柴ヶ森」は、佐屋町出身の元内閣総理大臣加藤高明の書である。

(弥富市教育委員会)

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柴ヶ森には八幡神社があります。

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