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2011年11月

2011年11月27日 (日)

金王八幡宮

JR渋谷駅東口から歩いて10分ほどのところにある金王八幡宮

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平安時代、渋谷氏の祖・河崎基家と源義家が八幡宮を創建し、その一帯に1092年、基家の息子の重家が渋谷城を築城しました。重家は、京都の御所に侵入した賊を捕らえた褒美に堀河天皇から渋谷の姓をもらったことから渋谷の地名がうまれたとされています。 また重家が八幡神に祈願して嫡男・金王丸を授かったことから金王八幡の名がおこったといいます。
金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱で武功を立てましたが、平治の乱で義朝は家臣の裏切りに遭い、無残な最期を遂げます。 金王丸は、出家し、土佐坊昌俊と名乗り、義朝の霊を弔いました。
その後、義朝の子である源頼朝に、義経を討てとの命令をくだされ、金王丸は、断れずに討伐に行き戦死しました。
その金王丸の逸話が有名になり、八幡宮はいつしか、金王八幡宮と呼ばれるようになったそうです。

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時を経て、渋谷城は1524年北条氏綱との戦いで、渋谷氏が滅亡する際に焼き払われてしまい、渋谷城の跡は、砦とりでの石一つと八幡宮が残りました。 金王八幡宮の現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定した御礼として家光の乳母の春日局と教育役の青山忠俊らが奉納したもので、社殿の真正面に立つ赤い立派な神門は、通称「赤門」と呼ばれています。

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2011年11月18日 (金)

木曽義仲・巴御前ゆかりの龍照院

JR関西本線蟹江駅を出て、約20分歩いたところに龍照院があります。

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龍照院は、733年、行基が創建したと伝えられ、1182年(寿永元年)木曾義仲が七堂伽藍及び十八坊を建立し、その中央に蟹江山常楽寺を置き、本尊十一面観音菩薩を安置、明恵上人が中興したといわれています。
1584年、小牧・長久手の戦いにおける蟹江合戦の際、本堂龍照院を残し、他は兵火のため焼失しました。
1868年、神仏分離、廃仏毀釈により、常燈を備えるのみとなり、1891年の濃尾地震により本堂全てを倒壊しましたが、69世・政隆の時に復興を果たしました。

重要文化財として本尊の十一面観音菩薩像があります。

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収蔵庫に安置され、毎月第三日曜に開帳されます。

蟹江町指定重要文化財として大日如来坐像(大日堂安置)と鰐口があります。

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大日如来坐像は、木曾義仲菩提を弔うために巴御前が安置した仏像と言われています。

巴御前は、木曾義仲とともに幼少のころから生涯をともにし、木曾義仲が平家追討の兵を上げたとき、義仲に従って上洛しました。
元暦元年(1184)粟津で巴は義仲と別れ、信濃へ落ちる際、蟹江町の常楽寺は義仲が建てた寺であることを知りました。巴はこの寺に如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられています。

墓地にある銀杏は、樹齢400年を越える古木で、秀吉が植えたとされています。

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(蟹江町観光協会HP参照)

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2011年11月12日 (土)

スタジオパークの大河ドラマの展示コーナー

新装オープンしたNHKスタジオパークへ遊びに行って来ました

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入館の受付を済ませると、ドーモくんたちがお出迎えしてくれます

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早速ドラマライブラリーのコーナーへ直行

ここでは、大河ドラマに使われた小道具や衣装の一部が展示されています。

第44作「義経」からは弁慶さまの下駄が展示されていました。

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で、肝心な殿のものは???

ガーン 一つもありませんでした~

主役のものがないなんてどういうことですか~

気を取り直してふと横を見ると・・・

いましたいました我らの殿が

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ってポスターですが

それから懐かしいオープニング映像が流れていましたよ

源義経 滝沢秀明

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このオープニング大好きでした

毛越寺の池を駆け抜ける白馬が印象的でしたね


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2011年11月 6日 (日)

梶原景時ゆかりの興禅寺

興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。

羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城された。
景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母隅の方ゆかりの羽黒の地にのがれ、代々住み着いた。
戦国時代になって、景親から17代目の景義は織田信長に仕えて、羽黒村3千石を領有していたが、本能寺の変で討死し、 梶原家は絶えた。
天正12年(1584)の小牧山合戦の際、秀吉がこの城を修復させ、城砦を築いた。 この城砦も焼け、廃城となり今日に至っている。
( 説明板より)

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境内には梶原景時の首を葬った景時、景義および梶原一族の墓があります。

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またここは、山内一豊の母・法秀尼ゆかりの寺でもあります。

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