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2012年6月22日 (金)

大物主神社(1)起源と平清盛との縁

昨年、尼崎の大物主神社を訪ねました。

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尼崎という地名は、平安時代の末から鎌倉時代初めに書かれた史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎は久安年間(1145~51)頃に形成された土地なのだそうです。

尼崎の「あま」は、今では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においては、漁民・海民を意味していました。また、崎(さき)は岬同様、海に突き出た場所を意味します。漁民・海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来という説、尼崎は、海の恵み豊かで、「海が幸」が語源とされているという説があります。
その海の恵みにより生きる人々によって建てられた祠が、大物主神社の起源と伝えられます。
大物主という名は、大物主神を祀ること、大きな建材(材木・石材)の集積地だったことから「だいもつ」と名付けられたともいわれています。

平安時代、尼崎の海は、大物浦と呼ばれ、海上交通では要所であるとともに、水害も多く、波の荒い難所でもありました。そこで、安芸の国守であった平清盛が、厳島神社の市杵島姫命を勧請合祀して船旅の安全を願ったといいます。

(尼崎観光HP参照)

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大物主神社の由緒

今を去る二千余前第十代崇仁天皇の御代日本全土が悪疫病にさらされ滅亡寸前になった時帝が御幣を大物主大神に奉り平癒を祈願されたその時大和三輪山に大物主大神が祀られ命を受けて大神八世の御孫大田田根子命の後裔鴨部祝が祖神様を当地に奉斎したのが始まりである。くだって平治元年(1159年)平相国清盛が芸州厳島参拝の時祭神市杵島姫命を此の大物の社に合祀した。当時の大物の沖合は謠曲や浄瑠璃の舟弁慶千本桜などにも謳はれているその頃「若宮」と呼ばれていた鎌倉の始め大物の浦から舟出した源義経主従も神社隣に宿をとり無事平安を祈ったといはれている。その後寛永年間約350年前宗像三柱神の故事に習って多岐都姫命、多紀理姫命を合祀又相殿神として西宮大神、菅原道真公等が配祀されている。(案内板より)

また、ここは江戸時代、醤油醸造が盛んな地域だったことから、「汁醤油発祥之地」の碑があります。

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コメント

尼崎の大物主神!
尼崎なんて阪神の下請け工場用地帯なんて思っていたのですが、見直しました。
その近辺に住んでいるより、他のところからの方が見えて来ることが多いと最近つくずく思います。
 大阪近辺も早く見たいが、飛騨,信濃、尾張の知多半島や三河なども見たいです!

四方さんへ

尼崎は初めて行きました。

>その近辺に住んでいるより、他のところからの方が見えて来ることが多いと最近つくずく思います。

それは自分にも言えることです。
地元のことはまだ勉強不足ですよ(^_^;)

私も行きたいところまだまだたくさんあります!

大物浦という地名は、義経の史跡を訪ねていた時に資料で見た覚えがありますが、どこなのかしら?と思ってました。
尼崎の事だったのですね。

>尼崎の尼(あま)は、今では海に潜って貝などを採る女性を指します

私は出家した女性というイメージを持っています。

merryさんへ

>尼崎の尼(あま)は、今では海に潜って貝などを採る女性を指します

すみません。訂正します。

正しくは、>尼崎の「あま」は、今では海に潜って貝などを採る女性を指しますが

あまを平仮名で書くつもりでしたが、漢字になっていましたね(^_^;)

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