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2012年8月

2012年8月30日 (木)

若一神社(2)祇王の歌碑

平清盛に仕え、後に嵯峨野の祇王寺に隠棲した祇王の歌碑

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「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」
(芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。)

人の世の無情を歌った平家物語史跡です。

祇王は、平家の家人・江部九郎時久の娘で近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれ、母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛されましたが、やがて清盛の寵愛は自らがとりなした仏御前に移り、母、妹ともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入りました。

一陽斎豊国画・東錦絵(若一神社蔵)には、西八条邸の宴にて、仏御前の登場で、屋敷を追われることになった祇王が、涙ながらに清盛邸の襖に歌を一首書き残したという絵があるそうです。

西八条邸は時子、祇王、仏御前の三人が同時期に住んでいたことがあるのでしょうか。
清盛さま、モテモテでしたのね~(^_^;)

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2012年8月28日 (火)

若一神社(1)清盛ゆかりのご神水

若一神社(にゃくいちじんじゃ)は、仁安元年(1166年)に平清盛が西八条殿の鎮守社として紀州熊野から勧請したのが始まりとされています。

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祭神は、若一王子。

宝亀3年(772年)、威光上人が紀州熊野に詣で、若一王子の御神体を当地に勧請し、お堂を建てて安置しましたが後に荒廃してしまいます。

平安時代になり、清盛が熊野詣の折にお告げを受け、当地の土中を探したところ若一皇子の御神体が現れたことから社を建てて鎮守社としたと伝えられています。
以後平氏の権勢が伸びたことから、開運出世の御利益があるといわれています。

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若一神社~梅小路公園付近は、西八条殿があった場所とされています。

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銘水 若一神社神供水

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境内にある清盛ゆかりの御神水で、開運出世の水と伝えられています。

社殿を建立し奉斎して以来、日供祭(にっくさい)という毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭りにて御神前に供えられてきた御神水なのだそうです。

水は持ち帰り自由ということで、ご近所の方が水汲みに来ていました。

JR京都線「西大路駅」から徒歩約5分。市バス西大路八条下車すぐ。

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2012年8月26日 (日)

平清盛の邸宅跡・西八条第跡

平清盛の広大な邸宅があった西八条第跡を追って歩いてみました。

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現在、西八条第跡は、京駅からほど近い梅小路公園となっており、市民の憩いの場をなっています。 

最近はこの中に京都水族館ができて話題になりましたね。

西八条第は、平家一門の邸宅群のあった場所で、それを総称して「西八条第」(「八条亭」とも)と呼びました。

清盛だけではなく、他の平家一門もここに邸宅を構えていました。
平安京左京八条一坊の東を大宮大路、西を坊城小路、北を八条坊門小路、南を八条大路で囲まれた区域にありました。広さは一般に6町(八条一坊五町・六町・十一町・十二町・十三町・十四町)とされますが、一時期は八条一坊三町含む7町あったとする説もあります。

現在の地名では、下京区の観喜寺町、八条坊門町、南区の八条坊門町、八条町に当たり、梅小路公園の「芝生広場」やJRの線路などに重なります。梅小路公園は平安建都1200年を記念し、1995(平成7)年オープンしましたが、埋蔵文化財の発掘調査で、西八条第の一部とみられる遺構が発見されました。このため、公園敷地には京都市営地下鉄(東西線)などの工事で生じた残土を盛り(厚さ約1.5縲怩Um)、遺構を壊さないよう造成が行われました。
(京都市都市緑化協会サイトより)

私はこの梅小路公園を今まで三度訪れているのですが、その時はこの案内板を見つけることができませんでした。
今回やっと見つけることができました。

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河原遊び場付近にあります。

朱雀の庭入口

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また朱雀の庭には、この石碑があるそうです。

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(京都市都市緑化協会サイトより)

出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻の時子がここを守っていたそうです。
養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家一門が木曽義仲によって平安京から追われる際に、自ら火を放ち、邸宅は残すところなく焼失しました。

西八条第跡

西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安(にんあん)元年(1166)頃に造営されたとする。
その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。
「平家物語」によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壷(ほうこ)とも呼ばれ、白拍子(しらびょうし)妓王(ぎおう)・妓女(ぎじょ)や仏御前(ほとけごぜん)の物語もこの邸宅での話しである。
清盛は仁安2年(1167)に太政大臣(だじょうだいじん)の位(くらい)を退いてから摂津福原(せっつふくはら)(神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼(にいのあま)時子(ときこ)はここに住み、邸内に光明心院(こうみょうしんいん)を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
清盛は、安元(あんげん)3年(1177)6月の鹿ケ谷(ししがだに)山荘事件の後、この邸宅でその処分を決めている。
また、「山槐記(さんかいき)」によると、治承3年(1179)12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子(けんれいもんいんのりこ)が生んだ2歳の東宮(とうぐう)(皇太子)言仁(ときひと)親王(後の安徳天皇)がこの西八条第に行啓(ぎょうけい)し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯(たわむ)れて感涙(かんるい)にむせんだとされる。
治承(じしょう)5年(1181)閏(うるう)2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。「平安物語」巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜(そのよる)、にはかに焼けぬ。・・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。
「玉葉(ぎょくよう)」によると、のちに再建された建物も、寿永(じゅえい)2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ邸宅は残すところなく灰燼(かいじん)に帰した。
文治(ぶんじ)元年(1185)、壇ノ浦(だんのうら)の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。
西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。
なお遺跡は盛土して保存されている。(案内板)

ここを歩いていた時、ゲリラ豪雨に見舞われ、稲光する中を歩いていました。
傘を差していたので、今思うととても危険な行為でした(^_^;)

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2012年8月24日 (金)

建仁寺の勅使門

建仁寺の勅使門

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重要文化財。

南側正面、八坂通りに面した鎌倉時代末期の建築様式の四脚門。

平重盛の六波羅邸の門(平教盛の館門とも)を移築したものと伝えられています。

柱や扉に矢の痕があることから「矢の根門」「矢立門」とも呼ばれています。

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2012年8月17日 (金)

尊勝寺跡

尊勝寺六勝寺の一つで1102年、堀河天皇の御願により創建されました。

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六勝寺とは、平安時代後期の院政期に天皇、皇后が洛外白河(現在の京都市左京区岡崎・平安神宮の周辺)に建てた6つの仏教寺院で、すべての寺院に「勝」の字が付くことからこれらの寺を六勝寺と呼ばれました。

戦火で全焼したと伝えられ、今は京都会館前に石碑のみ残っています。


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2012年8月 1日 (水)

八軒家浜と渡辺津

2008年、往時の八軒家浜の賑わいを水都大阪の再生の拠点とするため、天満橋駅の北側の「八軒家浜」船着場が、水陸交通ターミナルとして整備され、京阪天満橋駅の改札と直結しています。

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 渡辺津から世界遺産熊野古道へ 
 

 平安時代後期(12世紀頃)から熊野参詣が盛んになった。
白河上皇や鳥羽上皇は鳥羽離宮(京都市城南宮あたり)で身を清め道中の無事を祈願した後、京を出立。淀川を舟で下って渡辺津(現在の天神橋のあたり)で上陸し、熊野古道を通って熊野三山(和歌山県)へ、往復ほぼ一カ月かけて参詣した。
 熊野本宮、新宮、那智いわゆる熊野三山への路は、右図のようにメインスルートの中辺路のほか大辺路・小辺路・伊勢路があり、峠越えの古道を中心に、2004年世界遺産に登録されている。

 江戸時代以降このあたりは八軒家浜と呼ばれている。

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江戸時代、天神橋と天満橋に挟まれた大川南岸が八軒家と呼ばれた。八軒家には京都と大坂を結ぶ三十石船が発着する船着場があり、淀川における貨客輸送のターミナルであった。道路沿いには旅籠や問屋が並び、船着場には旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。そのようすは落語『三十石』や十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』にいきいきと描かれている。
この地域は八軒家と呼ばれる以前には渡辺と呼ばれ、渡辺津(わたなべのつ)を中心に平安時代から瀬戸内海と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。また、熊野三山への参詣道である熊野街道の拠点であり、交通の要衝として古くから賑わいをみせるところであった。現在も船着場が整備され、「みち」と「かわ」を繋ぐ、水の都大阪の拠点として、賑わいをみせている。
                                            (八軒家船着場の案内板)

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