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2012年12月

2012年12月31日 (月)

皆様へ

今年も当ブログを訪問していただいた皆様、たくさんのコメントありがとうございましたm(__)m

2012年は、新たに滋賀を旅したり、この7年の間に訪ねた源平ゆかりの地を再度訪問し、新たな発見がありました。

来年もマイペースで続けていきますので、応援よろしくお願いしますhappy01

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2012年12月29日 (土)

三草山合戦 義経とハッタイ

兵庫県小野市にある三草山合戦の史跡を紹介します。

三草山から鵯越に向う途中義経一行が空腹で困っていたので、土地の老婆がハッタイ(焼き麦または焼き麦の粉)を献上しました。義経はその老婆に報いるために粉食(こくい)という姓と、六畝歩の田を与え年貢を免除しました。以後、義経の通った坂を粉喰(こくい)坂と呼び、年貢は明治まで免除されました。このことを記した碑が国位田碑です。

粉喰坂

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樫山町から三木市鳥町へ通じる坂道です。

源平合戦のとき、平家追討の命を受けた源義経は、三草山より一ノ谷へ向かうためこの坂にさしかかった。行き会った老女に道を問い、空腹のため食べ物を乞うた。老女は麦をいぶして作ったハッタイ粉を差し出した。義経らはその粉で腹を満たし、近くの湧き水で喉を潤し坂道を登った。
以後、この坂を「粉喰坂」と呼ぶようになったと伝えられている。(石碑より)

国位田碑

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この建物の横にあります。

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樫山町公民館南側の薬師堂脇に立っています。

この石碑には『 國 位 源御守護神 御免地 』と記されています。一ノ谷へ向かう途中、樫山で休んだ源義経一行は、付近に住むおばあさんからハッタイ粉(麦をいぶして作った粉)を食べさせてもらい、一ノ谷の合戦に勝利することができたそうです。義経は、お礼として六畝歩の田と永代に渡る年貢の免除を与えたとのことです。この付近にその田があり、年貢の免除は明治9年(1876)まで続いたそうです。(石碑より)

義経の腰掛石

戸電鉄樫山駅の西方の竹林内にある巨石です。

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三草の合戦を終えた源義経が、一ノ谷へ向かう途中、樫山(小野市)にやって来て、老婆がハッタイを献上した時、この石の上に腰を掛け、ひと休みしたとのことです。

弁慶の重ね石

神戸電鉄樫山駅南西約1.8Km、案内板から丘陵を少し上がったところにあります。

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ハッタイを食べ、満腹になった弁慶が力一杯投げ上げて積んだという石。

弁慶には豪快な逸話が多いですね。

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2012年12月27日 (木)

三草山合戦 山氏神社の義経手植の松

佐保神社の末社であった山氏神社には、義経手植の松があります。

かつては大きな松があったそうですが、今では小さな松が数本生えている寂しい状態です。

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2012年12月24日 (月)

三草山合戦 佐保神社

加東郡社町にある佐保神社

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伝承によれば、義経は、三草山の合戦後、兵士を当社に集めて、次の作戦を立てたといいます。土肥実平に主力軍を預け、平家軍を追って南下し、一の谷の西の木戸を攻撃するように命じ、自らは少数の兵を率いて、朝光寺から池之内を経て、天神の掎鹿(はしか)寺へ入ったといわれています。(神戸史跡ハンドブックより)

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佐保神社由緒
 
 当神社は、第11代垂仁天皇の御代に創建され、延喜式にも所載の古社であります。
初め坂合神社と呼ばれておりましたが、いつの頃からか佐保神社と称されるようになりました。
 鎌倉時代には、朝廷や幕府の崇敬を集め隆盛を誇り、八丁四方に、内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営し、その中の一基(西の内の鳥居)は、現在でも社町鳥居地区に地名となって残っております。
 室町期に入り、度々の騒乱により一時荒廃いたしましたが、江戸時代に到って姫路城主池田輝政公の祈願所として社領十石を寄せられ、さらに幕府より御朱印社領十石を賜るなど、ようやく復興いたしました。
 また明治時代になり、官国幣社に次ぐ近郷唯一の県社の社格を付与されました。なお、社町の名は、往古より「佐保社村」と呼ばれ、当神社の門前町として発展してきたことに由来し、北播磨の雄として栄えてまいりました。
 現在の本殿は、延享四年(1747)に再建されたもので、三間社流造り正面千鳥破風・軒唐破風付銅板葺で、弊殿・拝殿・瑞神門とともに、華麗な彫刻で飾られております。
 御祭神は、東殿(向かって右)天照大御神
      中殿(中央)   天児屋根命
      西殿(向かって左)大己貴命
 この他境内神社には、恵比須神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神社神社・金比羅宮・稲荷神社・先宮社・天神社などがあります。
 (佐保神社案内板より) 

鎌倉時代、北条政子が当社を崇敬し、本殿の再建や四方に八基の鳥居を建てさせたりしているそうです。

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2012年12月22日 (土)

三草山合戦 上三草の五輪塔

三草山の戦いは、治承8年/寿永3年2月5日(1184年3月18日)播磨国の三草山における源義経軍と平資盛軍による戦いで、一ノ谷の戦いの前哨戦です。

三草山は標高423.9m播磨と丹波の国境で、古くから軍事上の要塞地でした。

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一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、平氏方の平資盛・平有盛・平師盛らが播磨国三草山の西に布陣する。義経は東方に陣をとり、源平両軍が三里ほどの至近距離で対峙する事となる。
丹波との国境に近い三草山は、交通の要所であると同時に険阻な山と深い谷に囲まれた軍事的要衝の地であった。平氏の荘園の地であったと見られ、平氏に地の利があるこの場所が防衛拠点として選ばれたと見られる。

『平家物語』「三草合戦」の段によると、義経は土肥実平を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問う。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく民家に火を放って進撃した。
夜討ちを予想していなかった平氏軍は武具を解いて休息しており、源氏軍の夜討ちにあわてふためいて敗走し、あっけなく源氏軍の勝利となった。(Wikipediaより)

上三草の五輪塔

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三草山の西の上三草に、鎌倉時代前期の五輪塔があります。

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中村家五輪塔の説明版には、その記述はありませんが、三草山合戦の戦死者の供養塔かともいわれています。   

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2012年12月18日 (火)

義経が太刀を奉納した金剛輪寺

※画像はクリックでしてご覧くださいshine

西明寺、百済寺とともに湖東三山の1つに数えられる金剛輪寺

総門

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本尊は聖観音、開基は行基とされています。

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嘉祥年間(848~851)に延暦寺の慈覚大師が中興し、天台宗に改められました。
平安時代末期、義経が、頼朝の命で、木曽義仲追討に向かうおりに、武運長久を願って、当寺に参篭し、太刀を奉納したと伝えられています。

織田信長の兵火で、金剛輪寺も被害を受けましたが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失を免れました。
それは、本堂、三重塔が、総門や本坊から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もあるそうです。

桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園があります。

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千体地蔵の並ぶ参道

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本堂(国宝)

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入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので国宝に指定されています。

紅葉の美しいお寺でした。

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2012年12月16日 (日)

湖南三山・長寿寺

長寿寺は、常楽寺の西寺に対して、東寺と呼ばれ、常楽寺、善水寺とともに湖南三山の1つに数えられています。

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寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生に七堂伽藍を建立し長寿寺と名づけたといいます。

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鎌倉時代には、頼朝が、室町時代には足利将軍家が祈願所として諸堂を造改修したと云われています。

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落葉した紅葉の絨毯が参道を彩ります。

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本堂

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弁天堂

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かつて、三重塔がありましたが、織田信長によって安土城山中の摠見寺に移築されました。

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今は礎石のみ残っています。

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2012年12月13日 (木)

富士川の合戦・飯森浅間神社

岳南鉄道の岳南原田駅から歩いて15分ほどのところにある原田公園の近くには、富士川合戦の際、源氏軍が食糧を置いたという飯森浅間神社があります。

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飯森浅間神社  略記

御祭神・木花之佐久夜昆賣命(このはさきくやひめのみこと)
当神社は『治承4年(西暦1180年・平安時代後期)源平両軍対陣の際、源軍は 当神社に食糧を置き、兵士此れを守備せしより『飯守明神』と称した』と伝えられ 現存する文書・記録が乏しく、創建の年代・現社名改称の経緯・その他信仰の変遷等を伺い知ることはできないが、かなりの古社である。
本殿に奉鎮されている当神社奉遷宮の棟札によれば『浅間社・神明社・宝前鎮座嘉永三戌年(西暦1850年)五月吉祥日・宇東川町内安全祈祷・地頭水野出羽守り』 とあるが、この当時御造営された本殿の老朽著しく、明治41年本殿・昭和5年拝殿を 御造営し現在に至る。
昭和8年2月18日村社に列せられ、明治40年神鎮幣帛料供進神社に指定されるなど 原田村の鎮守として広く信仰をあつめている。

相殿神(御祭神以外に本殿内に祀られている神)三座

天照大御神(神明宮)

嘉永3年(西暦1850年)の棟札に浅間宮と列して記載されていることから、古くより 浅間宮と共に奉祀されている。日本の大氏神である。

菅原道眞公(天満宮)

本殿には菅原道眞公の御神像が安鎮されているが、当神社嘉永嘉水年間の御造営に際し 浅間宮・神明宮とは別して棟札が納められていることから、明治41年(西暦1908年)の 御造営にあたり合祀されたものと思われる。
しかし、その経緯は定かではない。

大山津見神(山神社)

宇東川会館建設のため昭和28年合祀される。
旧鎮座地は、飯森浅間神社東側(約100来)の所であった。

平成8年10月吉日
宇東川1丁目3班当番組一同

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岳南鉄道というのがあるのを、この時初めて知りました。

なかなか行く機会がないところなので、東京の帰りに寄ることができて良かったです。

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2012年12月12日 (水)

土偶・コスモス展 MIHO MUSEUM

京都のブロガーさんのお誘いで、ブロガー仲間4人で、滋賀県甲賀市信楽町にあるMIHO MUSEUMに行って来ました。



JP石山駅から車で約40分。

山の中にあるこの美術館は、「桃源郷」をイメージして造られているそうです。



レセプション棟から桜並木を通ってトンネルをくぐり、その先の吊り橋の向こうに展示館があります。

merryさんのお話では、春はしだれ桜が見事に咲き乱れるそうです。

展示館までは、300mほどのなだだらかな坂。歩いてでも行けますが、電気自動車でレセプション棟と展示館の間を往復してくます。



もちろんこれを利用させていただきました!(^^)!
午後からのハードスケジュールに備えて、エネルギー温存のためね(^_^;)





建物設計は、ルーヴル美術館の「ガラスのピラミッド」、ワシントンのナショナル・ギャラリー東館で有名な建築家、イオ・ミン・ペイ。



美術館そのものがまさに芸術的で、建築容積の8割が地下に埋没しているという斬新的な造りです。



今回のお目当てである企画展「土偶・コスモス展」では、日本全国から集められた国宝の土偶を含む220点の縄文時代の土偶や土器が展示されています。

埴輪は、古墳時代に作られた土製の焼き物で、人間以外にも、馬や犬もあります。

一方、土偶は、縄文時代に作られた土製品で、すべて女性をかたどっているため、五穀豊穣や多産を祈っていたのではないかとされています。

土偶といっても、時代によって形はかなり違います。
足も手もない形のものから、体育座りの格好をしたものまで種類も様々。

私は、もっと大きなものを想像していましたが、小さなものでびっくりしました。


国宝「縄文のビーナス」





腕は左右に広げられ、手などは省略され、お腹とお尻は大きく張り出して、妊娠した女性の様子を表しています。

現代の私たちが想像する宇宙人と似ていませんか?

国宝「縄文の女神」



こちらは、スレンダーな古代美女です!

腰のくびれなど、現代女性が描く理想のプロポーションではないでしょうか。


国宝 合掌土偶




これは初めて見ました。
少し人間に近づいてきましたか。
この土偶も、手に乗るぐらいの大きさです。

常設展のコレクションは、ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本などの優れた古代美術が展示されています。展示品は、予想以上の量で、一周するのにかなり時間がかかりました。

質量ともに優れた作品を所有している美術館でした(#^.^#) ;

※土偶の画像は、HPよりお借りしましたm(__)m

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2012年12月 9日 (日)

平重衡の南都焼き討ち

1180年12月、清盛が五男の平重衡に南都攻略を命じました。

そこには、南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景がありました。
夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福に燃え移り、東大寺まで広がり、庶民が逃げこんだ大仏殿までもが炎に包まれてしまいました。

興福寺

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東大寺

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南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをします。

1184年、一の谷の合戦で、重衡は捕らえられ、鎌倉に送られました。
重衡の潔い態度に、頼朝は一武将としての敬意を表し、客人のように扱ったといいます。しかし、南都からの再三にわたる重衡の引渡し要求に応じることとなりました。

重衡が捕らえられた場所は神戸・須磨寺近くに重衡捕われの松の跡として残っています。

生田から逃げてきた平重衡は、源範頼の配下に捕らえられ、重衡は、松の根に腰をおろして次の歌を詠みました。
ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ

現在は、松はなく、須磨寺駅付近に碑と祠があります。

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最期は、1185年木津川のほとりで首を刎ねられ、奈良の般若寺の門前に梟首されました。この場所からは、東大寺が見えるといいます。

また、京都の醍醐には醍醐寺から歩いて住宅地の道を歩いていくと、団地のそばの公園の片隅に平重衡の墓がポツンとあります。

平重衡塚

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この地(日野)は重衡の北ノ方大納言佐局が平家没落後、身を寄せていた。
一ノ谷の合戦で捕らえられた重衡は鎌倉から奈良へ引き渡されたが、途中ここに立ち寄り北ノ方との別れを惜しんだ。
南部焼き討ちの罪を問われ、木津河原で斬首された後、日野で荼毘に付されたといわれている。(説明版参照)

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2012年12月 8日 (土)

富士川の合戦!頼朝と義経 黄瀬川の対面 

静岡県駿東郡清水町の八幡神社は、富士川の合戦の際、黄瀬川に陣を張った頼朝が源氏の守護神である八幡宮をこの地に勧請したのが始まりだという説があります。

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兄・頼朝の挙兵支援のため、はるばる奥州よりかけつけた義経は、境内で兄と涙ながらの対面をし、平家打倒を誓いあいました。

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当社の境内には、頼朝を祀った白幡社があります。

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また、本殿に向かって左手奥に、頼朝と義経が初めて会った時に腰掛けたとされる対面石があります。

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大きい方が頼朝、小さい方が義経の座った石といわれています。

対面石の後ろには、兄弟が対面した記念のため、みずから植えたと伝えられる「ねじり柿」と呼ばれる柿の木が生えています。

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頼朝が義経と対面した際、柿を口に入れたら渋柿だったので、吐き出したら、それが後になって芽を出して柿の木になったといいます。

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しかし、よく見るとこれは二本の幹が一本に見えるように絡まりあい、ねじれあっています。
これを見ていると、兄弟でありながら同じ道を歩むことの出来なかった頼朝・義経兄弟のように思えてきました。

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2012年12月 7日 (金)

富士川の合戦!平家越の碑

JR吉原駅駅から歩いて15分ほど、和田川の橋のたもと北側に、平家越の碑があります。

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ここは、治承4年(1180)、富士川を挟んで、平家軍が陣を構えた場所といわれています。
富士川の合戦は、源頼朝、武田信義軍対平維盛軍との戦いで、頼朝が直接兵を率いて平家と相対した初めての戦です。

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石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗。
頼朝は逃げ延び、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬から安房国へ向かいました。

富士川の合戦では、夜間に川上を迂回した源氏の動きに驚いて飛び立った水鳥の大群の羽音に、源氏の奇襲と勘違いした平家軍が、戦わずに京に逃げ帰ったという逸話が残っています。

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2012年12月 5日 (水)

源頼朝船出の浜の碑

今年のはじめ、源頼朝の史跡を追って真鶴を訪ねました。

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駅を出たらこんなものがあります。

真鶴駅前にある旗挙げ鍋

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石橋山の戦いで敗れた頼朝が真鶴へと逃げ延びてきた際、海岸の住民から暖かい鍋料理でもてなしを受けたといいます。
「源頼朝旗挙げフェスティバル」では、当時のレトログルメを再現した究極の料理を作るのに使われるそうですが・・・

実物かなり大きいですよ(^_^;)一体何人前のお料理ができるのでしょうね?

謡坂の碑

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治承4年(1180年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れでて、岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「 源平盛衰記 」 にあります。
この付近の謡坂という地名は、それに由来するといわれています。
治承4年(1180年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝らが、房州に逃亡する際に船出したと伝えられる岩海岸には「源頼朝開帆處碑」が建てられています。

岩海岸

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源頼朝開帆處碑

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「誓復父讎擧義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆處謡曲長傳七騎名」
(父の報復を誓って石橋山に義兵を挙げた頼朝が再起のためここから船出した。
従う七騎の名を謡曲が伝えている)

(この碑の裏側です)

源頼朝船出の浜の碑

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石橋山の合戦 治承4年 ( 1180年 ) に敗れた源頼朝は、箱根山中や しとどの窟などに難をのがれ、謡坂を経て、この海岸から房州に向かって船出し、虎口を脱したと伝えられています。
船出に協力した村民たちの鮫追船(さめおいぶね) 2艘については税が免除されたといわれる。

駅からのバスの本数が少ないので、予め時刻表を調べてから訪ねるねることをお勧めします。

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2012年12月 4日 (火)

滋賀情報!

巡回展『滋賀県立琵琶湖文化館が守り伝える美 近江巡礼 祈りの至宝展』が開催されます。

平成25年1月2日~2月11日までの静岡市美術館をスタートに、平成25年7月~仙台、平成26年3月~出雲へと巡回される予定です。

滋賀県立琵琶湖文化館の収蔵品から国宝・重要文化財を含む近江の仏教・神道美術と、滋賀ゆかりの作品などの近世絵画が二部構成で紹介され、写真パネル展などの関連事業も行われます。

静岡展については、こちらをご覧ください。 http://www.shizubi.jp/

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