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2012年12月 9日 (日)

平重衡の南都焼き討ち

1180年12月、清盛が五男の平重衡に南都攻略を命じました。

そこには、南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景がありました。
夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福に燃え移り、東大寺まで広がり、庶民が逃げこんだ大仏殿までもが炎に包まれてしまいました。

興福寺

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東大寺

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南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをします。

1184年、一の谷の合戦で、重衡は捕らえられ、鎌倉に送られました。
重衡の潔い態度に、頼朝は一武将としての敬意を表し、客人のように扱ったといいます。しかし、南都からの再三にわたる重衡の引渡し要求に応じることとなりました。

重衡が捕らえられた場所は神戸・須磨寺近くに重衡捕われの松の跡として残っています。

生田から逃げてきた平重衡は、源範頼の配下に捕らえられ、重衡は、松の根に腰をおろして次の歌を詠みました。
ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ

現在は、松はなく、須磨寺駅付近に碑と祠があります。

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最期は、1185年木津川のほとりで首を刎ねられ、奈良の般若寺の門前に梟首されました。この場所からは、東大寺が見えるといいます。

また、京都の醍醐には醍醐寺から歩いて住宅地の道を歩いていくと、団地のそばの公園の片隅に平重衡の墓がポツンとあります。

平重衡塚

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この地(日野)は重衡の北ノ方大納言佐局が平家没落後、身を寄せていた。
一ノ谷の合戦で捕らえられた重衡は鎌倉から奈良へ引き渡されたが、途中ここに立ち寄り北ノ方との別れを惜しんだ。
南部焼き討ちの罪を問われ、木津河原で斬首された後、日野で荼毘に付されたといわれている。(説明版参照)

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コメント

>清盛に五男の平重衡が南都攻略を命じられ、東大寺、興福寺など南都焼き討ちの失態となって責任を取らされる平重衡!
 歴史は残酷そのものです!

四方さん、コメントありがとうございます。

重衡は気の毒な人でしたね。

昨日の清盛のセリフにもありましたが、

もはや神も平家を見捨てたか・・・

といった状況だったのでしょうか。

昨夜のドラマでは、落ち込む清盛を前に、手柄を述べて屈託なく笑う重衡が可愛らしく見えましたね(笑)

享年29歳だそうですが、私からみれば子どものような年齢。お気の毒な話です。

merryさん

あの重衡の様子を見て、殴り倒すのかと思ったら・・・
さすがの清盛も呆れて怒る気力も失せていたようでしたね。

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