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2013年5月

2013年5月29日 (水)

頼朝の名馬「池月発祥伝説」

東急池上線洗足池駅から中街道を渡ると洗足池が広がっています。

かつては、千束郷大池と呼ばれていましたが、1282(弘安5)年、日蓮が身延山から常陸の温泉に行く途中、ここで足を洗ったという伝説から洗足池といわれました。

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公園の入り口にはボート乗り場があります。

この日は晴天に恵まれ、池の西側から一周してみました。

区指定名勝 洗足池

洗足池は、 武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、 昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました。 池畔の風景は優れ、 江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていました。  昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備され、 同5年には風致地区として指定されました。
面積は、 周辺を含めると約67,000㎡、 水面の広さは約40,000㎡です。 日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松のある御松庵など、日蓮にまつわる伝承も残されています。  また池畔には この地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛(南州)の留魂祠・詩碑などがあります。
池の西北部一帯は桜山と称し、桜の名所で、 区内有数の景観に富むところとして貴重です。
           大田区教育委員会

千束八幡神社

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「旗挙げ八幡」とも呼ばれています。

池の西のほとりにある千束八幡神社は、860年(貞観2年)に宇佐八幡宮が勧請され、千束郷の鎮守として祀られました。

平将門の乱の際、鎮守府副将軍として関東へ派遣された藤原忠方は、乱の後、この地に残り、この神社を氏神とし、池上姓を名乗ったといいます。
後三年の役では、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家は、洗足池で戦勝祈願しました。
また、安房から鎌倉へ向かう途中の源頼朝は、この地に陣を構えたところ、後に宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の磨墨と競うことになる池に映る月のような野生馬が現れ、これを捕えたという伝承が残っています。この馬こそ頼朝の名馬として知られる池月(いけづき)です。

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千束八幡神社「名馬池月発祥伝説」

池月発祥伝説の由来

池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(1180)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪族の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向って飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであつたため之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨(するすみ)を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと伝ふ。士卒之を伝へて征旗を高く揚げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(1184)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の亡失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に託したものでありこの伝説を太鼓に託したものであり毎年九月の祭日に奉納されている。
池月の 
      蹄の音か 
             揆の冴え
                                               平成四年三月

                              千束八幡神社
                              洗足風致協会

一週1.2kmなので、散歩がてらに史跡巡りができますよ(*^_^*)

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2013年5月25日 (土)

世田谷八幡宮

東京の世田谷区宮の坂に、世田谷八幡宮があります。

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寛治5年(1091年)後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀りました。

祭神は、八幡大神(応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后。

後に世田谷城主七代目の吉良頼康が、天文15年(1546年)社殿を再興させて発展させました。

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この日は、井伊家の菩提寺・豪徳寺の帰りに立ち寄りました。

世田谷線の線路を越えて、すぐのところにあります。

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2013年5月21日 (火)

平業盛の塚・善光寺別院

市営地下鉄「湊川公園」より12分、市バス「上沢4丁目」より6分、会下山公園の東側を北に進んでいくと善光寺別院があります。

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清盛の弟である教盛の三男・平業盛は、17歳でありながら武勇に優れていましたが、夢野の陣も一ノ谷の西城戸の大敗によって撤退を余儀なくされ、逃げ延びる途中、この地で源氏の泥屋四郎吉安と相対し、古井戸に落ち相手を組み伏せたが、弟の五郎重行が馳せてきて業盛を討ち取ったと謂われています。

寿永2年(1183年)7月、源義仲に追われ平家一門が都落ちすると、業盛も父や兄らともにこれに従った。
寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが、源範頼の軍の手にかかり戦死。『平家物語』によると、業盛は常陸国の住人・土屋五郎重行と組んで討たれたとされている。
『源平盛衰記』にはその最期の様子が、以下の通りより詳しく描かれている。即ち、源義経の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛に兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
『吾妻鏡』によると、この戦いで、兄の通盛、教経も討ち死にしている。このうち教経については『玉葉』などに生存説があり、『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語ではこの後の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで大いに活躍している。
2月13日、一ノ谷の戦いで討たれた他の平家一門の首とともに京で獄門に処された。

境内には、平業盛の塚と墓碑があります。

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少年武者 平業盛

業盛は清盛の弟教盛の末子である。一ノ谷の戦に平家方は大敗離散し、当年十七歳の少年業盛は緋縅の鎧で連銭葦毛の馬に乗り唯一人行き先を打案しつつ駒を渚に立たせて居た。折柄源氏方泥屋四郎及び其弟五郎が追撃して来たので之を迎えて奮戦し遂に兄四郎と馬上に引き組んで地に落ちはげしく揉み合上に重なったまま古井戸に落ち込んだ。弟五郎は兄の危急を救わんとして業盛の甲の錏を力まかせに引き離そうと焦る。業盛は之を防ぎ○兄四郎を殺そうとして一生懸命である。業盛はまだ少年とは云へ其の大力は大人も及ばぬ位であったので彼が五郎を振り離そうとして首を振ったはづみに甲の緒が引切れ、五郎は業盛の甲を持ったまま二間程も振飛ばされた。併し五郎も去る者で之にひるまず直に立ち上がり業盛の首を打ち取った。少年業盛の剛勇と怪力に敵も味方も其死を惜まぬものはなかった。(案内板より)

境内はよく整備されています。

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2013年5月16日 (木)

滋賀情報5/16

黄色ボタン、初夏の香り 米原・松尾寺で見頃
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20130516000032

ドッグランに来て 高島に宿泊施設オープン
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20130516000034

6月2日(日)【探訪】「俊乗坊重源の足跡を訪ねて~多賀大社と敏満寺」
【詳細】県政eしんぶん5月10日号
http://www.pref.shiga.lg.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20130510_1.html

6月8日(土)【近江戦国探訪】安土城下町と安土街道
【詳細】県政eしんぶん5月10日号
http://www.pref.shiga.lg.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20130510_2.html

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2013年5月10日 (金)

熊野の長藤2013

5年ぶりに熊野の長藤を見に出かけて来ました。

着いた途端に熊野御前の屋台の引き回しが行われていました。

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今年は既に見ごろを過ぎており、ところどころ色が変色し始めていました。

それでも、青空の下、見事に房をつけた藤を一目見ようとする人々で満員!

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一、当寺は今より八百年の昔、延久元年(1069)の創建にて、謡曲で有名な、熊野御前の旧跡であります。
一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)熊野御前とその母、次女朝顔の墳墓がそのまま昔を物語っております。
一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭を執り行います。
一、境内にはその昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると、称される紫房五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年(1932)文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に指定されました。身頃は、年により相違がありますが、平年四月下旬から五月上旬であります。
一、謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。

         旧跡 熊野寺

熊野と母の墓

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        謡曲「熊野」と行興寺

遠江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。
熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞きいれられず、やむなく宗盛に同行しました。
花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄かの村雨に散る花に寄せて、故郷の病母を気遣い
  
 いかにせん都の春も惜しけれど
         馴れし東の花や散るらん と

和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。
熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり、「熊野の長フジ」と称せられています。
                  
          謡曲史跡保存会

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  熊野の長藤

 国指定天然記念物  一本
  県指定天然記念物  五本
 

国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1,8mもある。  本堂前の境内地にある5本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに樹齢は定かでないが老木であるこ 花房が1m以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたという伝承がある。熊野御前については謡曲「熊野」や「平家物語」にも登場する、親孝行で有名な美女である。
        

        平成十八年三月   磐田市教育委員会

行興寺の北側には、遍照山西法寺跡の碑があります。

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ここには、遍照山西法寺という寺院がありました。貞永年間に真言宗として創立。
本寺は、高野山善門院、本尊は不動明王。

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ここにも藤棚は続き、その下でお弁当を食べる家族連れの姿も

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広場の正面には、能舞台があり、琴などの演奏も行われます。

帰りは天竜川の河川敷沿いを通って

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お土産に長藤もちを買って帰りました。

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お餅の中に、白餡とブルーベリージャムが入っていて、凍らせて食べるても美味しいです!

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2013年5月 5日 (日)

長楽寺(2)相阿弥作庭園

相本堂と梵鐘

毎年大晦日の除夜の鐘として鳴らされ ています。

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この辺りは紅葉が残っていました。

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相阿弥作庭園

室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられています。

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建礼門院の木像

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※季節はずれの記事ですみません(^_^;)

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