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2013年7月14日 (日)

曽我兄弟の史跡(3)工藤佑経の墓

曽我の隠れ岩の近くに工藤佑経の墓があります。

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工藤佑経の墓

建久四年(1193年)五月二十八日しのつく雨の夜、工藤祐経は曽我兄弟の仇討ちにより、陣屋で殺害されました。富士の巻狩りの最後の夜に起きたこの事件は当時大騒動になりました。 曽我兄弟の兄十郎は、捕えられ処刑されました。この墓は曽我によって討たれた工藤祐経がこの地に埋められたと伝えられることから、ひっそりと守られてきました。この西方にある「曽我の隠れ岩」とともに、この地が武士道を象徴する三大仇討の一つの舞台となった歴史をしのばせてくれます。なおこの東南約1キロのところの上井出字上原には源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるため建てられた曽我八幡宮があります。

                         富士宮市

工藤佑経とは

平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京,左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に,伊豆国伊東荘を預けていたが,祐親が押領したとして相論となった。祐経の妻は祐親の娘であり,この対立のため祐親の許に連れ戻され,土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は,安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い,祐親の嫡子河津祐泰を殺害した。源頼朝の挙兵以後,早くから頼朝方に付き,幕府成立以後は,在京の経験から,楽などの道にも通じており,頼朝の信任も厚く,平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また,平家追討で九州へ従軍し,5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年,河津祐泰の子の曾我十郎祐成・五郎時致兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。   (コトバンクより)

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コメント

敵討ちのお芝居は昔から拍手喝采をを受けてきたものですが、その原因を探ると、必ずしも相手に非があるものではないですね。

工藤佑経もお気の毒な気がします。

merryさん、おっしゃる通りですね。

殺した側から見れば、仇討になりますが、討たれた側からすれば、暗殺されたということになりますね。
工藤佑経・・・なかなかの働きをした武士だったのですね。

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