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2013年8月15日 (木)

曽我兄弟の史跡(8)曽我寺

建久4年(1193)源頼朝が、富士の巻狩りを催した折、曽我兄弟は、頼朝の寵臣になっていた父の仇である工藤祐経を討ち取りました。
兄の十郎はその場で討たれてしまいましたが、弟の五郎は、頼朝の宿所にめざしましたが、頼朝の側近に捕えられました。
翌日尋問が行われます。頼朝は五郎が勇気ある武士だということで助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆願により処刑されました。

一説には、単なる仇討ではなく、背後には北条時政など政治的な背景があり、兄弟が頼朝の命を狙っていたともいわれています。

身延線入山瀬駅から徒歩5分の鷹岳山・曽我寺には、曽我兄弟の墓、位牌、木像があります。

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山門をくぐるとすぐに身代わり地蔵尊

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参道左手に文殊菩薩像

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右手には、三体の地蔵像『一念』『兄弟愛』『親を思う心』が並んでいます。

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曽我兄弟の墓所

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曽我兄弟の像

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本堂

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薬師如来と虎御前の由来の碑

十郎の愛人・虎御前が弘法大師作と謂われる薬師如来を生涯供養したとことで、770余年前の遺志を継ぎ、新たに薬師如来を安置し祀ったとあります。

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この他にも、曽我兄弟の史跡は点在していて、「五郎首洗い井戸」もあるそうですが、時間切れになりました。

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曾我兄弟」カテゴリの記事

コメント

>単なる仇討ではなく、背後には北条時政など政治的な背景があり、兄弟が頼朝の命を狙っていたともいわれています。
当然当時の政治情勢からそのような状況下であったと思慮しますね!

四方さん、私もその説の方が正しいのではと思います。そのために犠牲になった兄弟も気の毒に感じます。

兄は十郎で、弟は五郎だったのですね。
昔の人は、生まれた順番で名前が付けられると思ってましたが、そうではないのですね。

merryさん、良いとこに気が付きましたね!

私も生まれた順番だと思ってました。

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