« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月31日 (土)

清和源氏発祥の地・多田神社(2)

多田神社の摂社です。

田尻稲荷神社

Img_3544_b Img_3545_b

旧多田荘の田尻より移築されました。社殿は一間社流造。

厳島神社(弁財天)

Img_3546_b Img_3547_b

市杵嶋姫命を祀っています。
一間社造りの社殿は室町後期に再建されたものです。

六所宮

Img_3548_b Img_3549_b 

伊勢、賀茂、稲荷、春日、住吉、熊野の神々を祀っています。
旧多田院の鎮守社として、また多田荘72ケ村の総社として鎌倉期に創建された神社です。
現在の社殿は室町後期に再建された三間社造りです。

無患子(ムクロジ)

Img_3550_b Img_3551_b

本州、四国、九州に分布するムクロジ科の落葉高木です。
黒い実は羽子突きの羽子の球として用いられるそうです。

応援のポチッのご協力お願いします。


人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

2013年8月26日 (月)

清和源氏発祥の地・多田神社(1)

阪急電鉄宝塚線「川西能勢口駅」下車。阪急バスにて「多田神社前」で降りるとすぐに鳥居が見えます。

Img_3520_b

猪名川にかかる橋を渡ると、多田神社の南大門に行き着きます。

Img_3522_b Img_3557_b Img_3556_b

Img_3523_b Img_3524_b Img_3525_b

多田神社
は、兵庫県川西市にある神社で、多田院として国の史跡に指定されています。この地は清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天禄元年(970年)に天台宗寺院として建立されました。明治以前までは多田院と称した寺院でしたが、神仏分離の際に神社となりました。

多田神社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀っています。

現在の社殿は、寛文年間に徳川家綱が再建したものです。

南大門

Img_3527_b Img_3528_b

多田院のもとの仁王門。
明治4年神仏分離で、仁王像は満願寺山門に移転され、安置されています。

Img_3530_b Img_3531_b

随神門

Img_3532_b
 

徳川四代将軍家綱公により再興されました。
両脇に築地塀が付いた三楝造と呼ばれる八脚門。

神馬舎

Img_3537_b

拝 殿

Img_3533_b_2 Img_3534_b Img_3535_b Img_3536_b 

徳川四代将軍・家綱公により再興。入母屋造、檜皮葺屋根

本殿

Img_3538_b

徳川四代将軍家綱公により再興。桃山時代の姿をそのまま継承した、
素木の入母屋造、檜皮葺屋根

神廟(源満仲、頼光両公の御廟所)

足利尊氏公以下、足利歴代将軍の分骨も収められています。
本殿真裏にあり、禁足地帯になっています。

Img_3543_c

応援のポチッのご協力お願いします。


人気ブログランキングへ

2013年8月21日 (水)

狩宿の下馬桜

1193年に源頼朝が富士の巻狩りを行った際、馬から降りた所とされたことから狩宿の下馬ザクラと呼ばれるようになりました。
この時は、もう桜の花は咲いていませんでしたが、毎年4月には、多くの花見客で賑わうそうです。

Img_0742_c Img_0745_b

狩宿の下馬桜

国 指 定  特別天然記念物
指定年月日 昭和27年3月29日

 この地は「狩宿」といわれ、建久4年(1193年)源頼朝が、富士の巻狩の際に陣屋を設けた所と伝えられる。頼朝の本陣(宿所)は井出館におかれ当時の館は、現在の井出家の北東側にあった。  「狩宿の下馬桜」は、別名「駒止めの桜」と呼ばれ、頼朝が桜の枝に馬をつないだと伝えられる。  この桜は赤芽のシロヤマザクラで、花序4.5センチメートル、花径3センチメートル。開花時期は4月10日から20日頃である。  かつては、目通り8.5メートル、枝張り東西22メートル、南北16メートルの巨木であったが、たびかさなる台風等により損傷し、往時の雄姿はしのばれない。しかし近年若芽の成長により樹勢を盛り返している。  あはれその    駒のみならず見る人の      心をつなぐ山桜かな
                        

                                         徳川15代将軍 慶喜詠

 

ここから富士山が見えます。

 

Img_0754_b

応援のポチッのご協力お願いします。

 

 

 

 


人気ブログランキングへ

 

 

2013年8月15日 (木)

曽我兄弟の史跡(8)曽我寺

建久4年(1193)源頼朝が、富士の巻狩りを催した折、曽我兄弟は、頼朝の寵臣になっていた父の仇である工藤祐経を討ち取りました。
兄の十郎はその場で討たれてしまいましたが、弟の五郎は、頼朝の宿所にめざしましたが、頼朝の側近に捕えられました。
翌日尋問が行われます。頼朝は五郎が勇気ある武士だということで助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆願により処刑されました。

一説には、単なる仇討ではなく、背後には北条時政など政治的な背景があり、兄弟が頼朝の命を狙っていたともいわれています。

身延線入山瀬駅から徒歩5分の鷹岳山・曽我寺には、曽我兄弟の墓、位牌、木像があります。

Img_0791_c Img_0792_c

山門をくぐるとすぐに身代わり地蔵尊

Img_0793_b

Img_0794_b Img_0795_b

参道左手に文殊菩薩像

Img_0796_b Img_0797_b

右手には、三体の地蔵像『一念』『兄弟愛』『親を思う心』が並んでいます。

Img_0798_b

曽我兄弟の墓所

Img_0799_b

曽我兄弟の像

Img_0800_b

本堂

Img_0803_b

薬師如来と虎御前の由来の碑

十郎の愛人・虎御前が弘法大師作と謂われる薬師如来を生涯供養したとことで、770余年前の遺志を継ぎ、新たに薬師如来を安置し祀ったとあります。

Img_0804_b

Img_0805_b Img_0806_b

この他にも、曽我兄弟の史跡は点在していて、「五郎首洗い井戸」もあるそうですが、時間切れになりました。

応援のポチッのご協力お願いします。


人気ブログランキングへ

2013年8月 8日 (木)

曽我兄弟の史跡(7)玉渡神社

富士市厚原に鎮座する玉渡神社。

Img_0807_b Img_0808_b Img_0809_c

兄の曽我十郎の恋人、虎御前が、兄弟の供養のため、終焉の地・井出の里に向かう途中、この祠で休んでいたところ、夜中にふと目をさますと、曽我寺の辺りから、二つの火の玉が飛んできて、虎御前の前まで来ると消えてしまいました。それが、兄弟の魂だと確信した彼女は、その夜から七日七晩、この祠で念仏を唱え、兄弟の冥福を祈りました。

そのけなげな姿を見た地元の人々が、虎御前の死後、当社を建立し、虎御前の冥福を祈ったといいます。

応援のポチッのご協力お願いします。


人気ブログランキングへ

2013年8月 3日 (土)

曽我兄弟の史跡(6)曽我八幡宮(厚原)

曾我兄弟の仇討ちの舞台の地である県内各地に点在し、厚原にも曽我八幡宮があります。
Img_0810_b

こちらは2010年に改修工事が行われたそうです。

 Img_0813_b 

曽我兄弟の父が、工藤祐経に討たれたときは、兄は5歳、弟は3歳だったといいます。

境内には、幼い兄弟がいつか親の仇をとろうと誓い合う像が立っています。

Img_0811_b

幼い兄弟の像が愛らしいだけに、悲しみを誘います。

応援のポチッのご協力お願いします。


人気ブログランキングへ

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2025年6月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

カテゴリー

無料ブログはココログ