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2013年10月31日 (木)

西行庵と西行堂

祇園女御の塚のある京都祇園堂からほど近いところに西行ゆかりの西行庵西行堂があります。

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西行庵

西行法師(1118~1190)は、平安時代末期の僧侶であり、新古今和歌集の代表的歌人の一人である。
出家をする前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、もと鳥羽上皇の北面の武士であったが、保延(ほうえん)6年(1140)に出家し諸国を行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌を詠んだ。
この地は、西行が蔡華園院(さいかおういん)を営み、終焉の地であったところと伝えられている。
明治時代中頃には荒廃を極めていたが、明治26年(1893)に富岡鉄斎(とみおかてっさい)が勧進文(寄付を呼びかける文)を書き、小文法師(こぶんほうし)が浄財を募り、当時の京都市長内貴甚三郎(ないきじんざぶろう)らの尽力により再建されて現在に到る。
当庵は、母屋「浄妙庵(じょうみょうあん)」、茶室「皆如庵(かいにょあん)」からなる。茅葺(かやぶき)きの母屋は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものである。
皆如庵は北野の久我(こが)別邸より移された桃山時代の名席で、円窓床(えんそうどこ)と道安囲(どうあんがこい)の点前座(てまえざ)が有名である。
毎年3月中旬には、皆如庵で西行忌(さいぎょうき)茶会が執り行われる。
  願わくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃  西行(山家集)
         京都市(案内板より)

西行庵の隣に、雙林寺の塔頭・蔡華園院があります。
西行は出家した翌年の1141年からここに住んでいたといわれています。
この入り口を入ると、奥には西行堂があります。

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西行堂

西行法師(1118~1190)は、平安末期から鎌倉初期の歌僧で、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」という。
もともと鳥羽上皇に仕えていた北面の武士であったが、23歳の時、武士の名誉などを棄て、突然出家した。
翌年、永治元年(1141)から、双林寺塔頭である「蔡華園院(さいけおんいん)」に止住し始めた。
「山家集 上、冬歌」
野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける
「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」
「山家集 上、春歌」
「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」
この有名な歌は、双林寺境内の桜のもとで詠まれたものではないかとも言われている。
この西行堂のもとは、天正時代に「蔡華園院」の跡地に建立され、享保21年(1731)、摂津池田李孟寺の天津禅師により、この地に移築再興された。
明和7年(1770)には、冷泉為村が修繕した。堂中央に為村筆「花月庵」と書した横額を掲げる。
その後、明治26年(1892)宮田小文法師によって、隣接する茶席(浄妙庵、・皆如庵)が移築され、現在に至っている。
堂内には、西行法師座像、頓阿法師座像を安置する。
      天台宗 金玉山 双林寺(案内板より)
 
西行法師僧像、頓阿法師僧像は、現在は双林寺本堂でお祀りされています。(拝観不可)

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コメント

不思議とこの西行井戸、西行庵と西行堂には縁がありません。
11月京都行きで思慮してみます!

去年の大河ドラマを見てから、西行がイメージできるようになりました(笑)

しずかさんの記事を読んで、なるほど・・とうなづいています。

四方さん、今月嵐山に行かれるのですか?

近くまで行くことがあれば、ここものぞいてみてください。

merryさん、藤木さんの西行素敵でしたね☆

神出鬼没なところも魅力的でした(笑)

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