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2014年4月24日 (木)

「天女姫伝説」を追って 本川井戸と疱瘡神社

広島に伝わる清盛と常盤御前の娘・天女姫の伝説を追って歩いてみました。

本川井戸
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本川井戸の由来

平清盛は、その娘・天女姫・が宮島で亡くなり(1179年)その亡き骸を祀るため堀越の丘に疱瘡神社を建てました。
そしてその神社が狐や狼に荒らされる事を気遣って、全国から大勢の作業者をあつめ、堀越の山の一部を堀り切って、そこに海水を引き込み、神社のある丘を島にするという大工事を行いました。
この本川井戸はその時に作業者たちの飲み水として使うために、掘られたものであるといわれています。
そしてその工事は、堀越の地名の由来ともなりました。

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この看板を追っていくと疱瘡神社に辿り着きます。

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疱瘡神社
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疱瘡神社の由来

源義朝の死後、その側室であった常盤御前は三人の子どもを連れて平清盛の所へ助命嘆願に行きました。
そしてその後に生まれたのが『天女姫』であり、従って源義経とは異父同腹の兄妹です。
姫はその名の通り天女にも似た美女でしたが、不幸にも疱瘡病(天然痘)という病気に罹り、清盛は全国の名医を集めて治療に専念いたしました。
しかし病は容易に癒えず、「この上は平家の守り神である厳島明神の力におすがりする外ない」と治承三年(1179)二月上旬に、姫を船に乗せ沢山の女官・従者を従えて、海路二十六日宮島に参着し、祈願の後帰路に就きましたが、急に病状が悪化し二月二十九日に姫は十四才を一期に息を引き取りました。
清盛は止む無くその遺骸を埋葬すべき所を神に伺ったところ「これより東方七里、赤旗の建っている場所こそ埋葬の地である」とのお告げに従い、遺骸を船に乗せ東方向灘の浦まで漕ぎ来ると、まさしく赤旗の建っている丘があり、「ここぞその場所」と考え、金銀十二枚、手玉七つ、玩具類七個と、姫が肌身離さず持っていた一寸八分の黄金仏などを副葬品として埋めて、そのしるしに『せんだんの木』を植えておきました。
そして、その場所から東方八間の所に四間四方のお堂を建てて、本尊に阿弥陀如来を祀り、その脇に十二単で身を飾った姫十四歳の立ち姿の木像を置き、入魂の秘法を行い本尊に配し祀ったと古伝にあります。
その場所が昔からこの場所と伝えられています。

『仁保村志の原文より要約』
平成十八年四月吉日 (案内板より)

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JR向洋の駅から歩いて行ったのですが、なかなか場所がわからず、迷いながら言ったので、行きは30分以上かかったと思います。
駅の周辺では、これらの史跡を知っている人がいなかったのですが、当てずっぽうで歩いて行く途中、神社のそばに住んでいる方と出会い、行き方を教えていただきました(#^.^#)

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常盤御前」カテゴリの記事

コメント

凄い!
清盛と常盤御前の娘・天女姫の伝説は本当だったのですね!
子供ができた諭旨は知っていましたが、このような話とは良く知りませんでした。
ありがとうございました。

清盛と常磐との間に女の子がいたとは聞いたことがありますが、こんな伝説が残っているのですね。

14歳で疱瘡で亡くなった・・
昔は、そんな事も多かったのでしょうね。

四方さん、めりいさん、コメントありがとうございますm(__)m

伝説の域まで追い出すと、きりがないのですが
このように伝説コースの案内板が設けられていると、ついつい追ってみたくなります!

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