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2014年5月 4日 (日)

熊野(ゆや)御前ゆかりの長藤(1)

今年も熊野の長藤を見に出かけて来ました。

まずは、「池田の渡し歴史風景館」で説明を読んで、歴史的背景を頭に入れます。
(毎年同じことの繰り返しですが(^_^;))

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行興寺に到着。

「熊野の長藤」は、磐田市池田の行興寺にあり、平安時代、平宗盛に寵愛された熊野御前が植えたとされる推定樹齢800年以上を数える長藤で、国の天然記念物にも指定されています。

この長藤の開花期間の4月下旬から5月上旬にかけて催される、「池田・熊野の長藤まつり」では、能舞台での各種イベントや、池田の渡船の再現、屋台の曳き回しなどがあります。

渡船の再現

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昔はこのような舟で渡しが行われていたのですね。

顔出し看板
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さて、ここ行興寺の長藤にゆかりのある熊野(ゆや)御前平宗盛についてですが、謡曲「熊野」と行興寺の説明をご覧ください。

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謡曲「熊野」と行興寺

遠江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。
熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞きいれられず、やむなく宗盛に同行しました。
花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄かの村雨に散る花に寄せて、故郷の病母を気遣い
  
 いかにせん都の春も惜しけれど
         馴れし東の花や散るらん と

和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。
熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり、「熊野の長フジ」と称せられています。
                  
          謡曲史跡保存会

熊野御前                              熊野御前花見

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熊野の長藤
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 熊野の長フジ 国指定天然記念物一本、県指定天然記念物五本

  国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1.8㍍もある。
  本堂前の境内地にある五本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。
  花房が1㍍以上にも伸びて 紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する。親孝行で有名な美女である。
                                                                                                            

平成十八年三月 磐田市教育委員会

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例年より人出が少ないかな?と思ったら・・・

今年はすでに見頃を過ぎ、入口付近は色が褪せていました(-_-;)

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が、中に進んで行くと、まだ色の綺麗なところも残っていました。!(^^)!

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遍照山西法寺跡
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遍照山西法寺跡
 
 ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。
 豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。江戸時代に書かれた『遠淡海地志(とおとうみちし)』によれば、この時代の町内四二カ寺のうち、曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一カ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています。

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(次に続く)

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熊野御前」カテゴリの記事

コメント

熊野の長フジ 国指定天然記念物一本、県指定天然記念物五本とは凄い!
熊野(ゆや)と読むのですね。

四方さん、ゆや御前のことを知らなければ、「熊野」は「ゆや」とは読めませんね。

こんばんは。

能楽「熊野」を語らせたら長いつねまるです。

「熊野松風に米の飯」と言われ、噛めば噛むほど味わい深い曲とされてます。

母からのお手紙を熊野が宗盛に読めと言われ読み上げる部分は「文之段」。切々と老いた身を嘆きつつ、暗に「帰ってこーい」(でもちゃんと宗盛様の許可をもらえ)な、内容です。

不本意ながら宗盛に同行し移動する道中の都の風情、宴の主人に徹する葛藤、そこまで言うなら…と東下りを許される瞬間の熊野の心の叫び。

数百年もの間、人々に好まれた謡はかくも心を打つものか、と、思います。

今回のコメントに際し弊記事内お稽古当時のを読み返して、自分の技量にとらわれた記載内容が恥ずかしくなりました。

冷静にならねば。


つねまるさん、こちらにも訪問ありがとうございます!

平家の全盛期、権力者としての平宗盛と妾の熊野、春の明るく美しい景色と熊野の心・・・と光と影の対比をなしていますね。

私が当ブログを始めたのは、初めてここを訪ねた年でした。何となく熊野の長藤がきっかけになったような気がしています。

熊野と書いて「ゆや」
これはなかなか読めませんね。

>推定樹齢800年以上を数える長藤

花の歴史もそうそうたるものです。

大切に木の手入れをされているのでしょうね。

めりいさん、樹齢800年以上ともなると、かなりの老木ですね。
年々勢いがなくなっているように思いますが、何とか頑張って来年も咲かせて欲しいです。

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