忠海の耳無地蔵
広島県竹原市は安芸の小京都といわれ、古来、瀬戸内海の交通の要衝として栄えました。

この沖で、清盛の父・平忠盛は海賊を退治しました。
後にこの辺りの海は「忠海(ただのうみ)」と呼ばれ、今もその地名が残っています。

1135年(保元元年)日宋貿易の航路である瀬戸内海の忠浦沖(当時は「浦」)で海賊を捕えた功績として忠盛の二文字を分け、「浦」を忠海と、対岸の島である大三島を盛村と名づけたと伝えられている。
また、この地には清盛ゆかりの耳無地蔵があります。
厳島神社に向かう途中に立ち寄った清盛が、娘・徳子の安産のためにつくった地蔵と伝わります。
さて、駅からプリントアウトした地図を頼りに、てくてくと歩いていったのですが、地図に記された目印が少なすぎて、どう歩いたらいいのやら。
線路沿いの道をひたすら歩いていたら、コンビニを発見!
地図を見せて聞いてみたところ、方角は合っているらしい。
またしばらく歩いていると住宅地に入りました。
通りを歩いている人の姿がないので、仕方なく民家をピンポンして道を尋ねてみました。
しかし、その地蔵のことは知らないと言われorz
さらに数百メートル歩いたところで、向こうからお婆さんが歩いて来ました。
このお婆さんが、耳無地蔵を知っていて、このまま坂を上って行ったら、下に下がる表示があるよと言われ、
歩いて行くと、綺麗にお祀りされているお堂に辿りつきました!


1178年春、平清盛は,高倉天皇に入内させた徳子(清盛の子)の安産祈願のため,厳島神社に向かった。
しかし、船旅の途中、激しい風に遭い、徳子の出産に胸騒ぎがした清盛は、安産を祈るため、石工に地蔵を彫るように命じた。
石工が耳を完成させる前に、徳子が元気な男の子(安徳天皇)を出産したため、耳がついていない地蔵をそのままの姿で祁った。
その地蔵が忠海の辻地蔵似心堂にある「清水の耳なし地蔵」といわれている。
なるほど耳がありませんね。
村の人々に大切にお祀りされているのがわかりますね。
この土地の人と話したところ、ここら辺では「清盛」と呼び捨てにする人はいないと。
必ず「清盛さん」と言うのだそうです。
帰りは走りながら駅に向かいました(^_^;)
一時間に一本なので、必死です(苦笑)
忠海のフェリー乗り場が見えたら駅まであともう少し!

電車が出るまであと5分!
どうにか時間に間に合いました!
場所を知っていれば、片道25分ぐらいで行けるかな?
私は往復55分かかりました。
今後行かれる予定の方は、次の電車に乗るには、のんびり歩きでは間に合いませんのでご注意を!
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