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2014年7月

2014年7月30日 (水)

那須の与一ゆかりの北向八幡神社

屋島の戦いで船上の扇の的を射ぬいた源氏の弓の名手・那須の与一ゆかりの北向八幡神社が、神戸市須磨区にあります。

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本殿は、北向きに建立されており、通称「北向きさん」と呼ばれています。

一ノ谷の合戦の時、源義経は村人から、御神威が高く、飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社があると聞き、那須与一に武運長久を祈らせました。
与一は、戦乱の後、お礼参りに当社を訪れたましが、中風の為に当地で亡くなったと伝えられています。

(当社には、正月に射敵式という神事があったことから与一のことが結びついたのかも・・・)

境内には、土地の人が与一を祀った那須神社があります。

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荒熊神社
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ここを訪れたのは、2008年のこと。
ついつい記事にするにが後回しになってしまいました(^_^;)
画像はその時撮影したものです。

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2014年7月21日 (月)

頼朝ゆかりの阿弥陀如来像

鎌倉の長谷寺は、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したといいます。

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観音堂
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阿弥陀堂
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観音堂右隣の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれ、「鎌倉六阿弥陀」の一つに数えられています。

この像は元は廃寺となった市内の誓願寺の本尊であったということです。

初夏は、あじさい寺としても人気が高く、境内に咲き誇る紫陽花を撮影する人達で賑わいます。

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2014年7月13日 (日)

頼朝ゆかりの虚空蔵菩薩

鎌倉の長谷駅から極楽寺駅に向かう途中、成就院の手前の虚空像堂の石段下にある「星ノ井」は別名「星月ノ井」とも呼ばれています。

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井戸の中は覗くことができません。

この辺りは周囲に木々があって、昼でも暗かったため、井戸をのぞくと昼でも星が光って見えたといういわれからこの名がついたそうです。

奈良時代の名僧・行基がこの井戸で光る石を見つけ、これは虚空蔵菩薩の化身だと思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩像祀ったという伝説があります。

古来より水に恵まれなかった鎌倉では、水が豊かに湧き出る井戸は貴重な水源だったのですね。

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慶長五年(1600)六月 徳川家康京師よりの帰途  鎌倉に過り特に此井を見たることあり 以て其名世に著はるるを知るべし 水質清冽最も口に可なり

碑文によると、

1600年(慶長5年)6月、京からの帰りに徳川家康が鎌倉に立ち寄り、星月夜ノ井を見たといいます。

虚空蔵堂
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虚空蔵堂の正式名称は、明鏡山円満院星井寺。

鎌倉時代には源頼朝もこの菩薩を崇敬し、行基作とされるご本尊の虚空蔵菩薩像を秘仏とし、三十五年に一度だけ開帳されていましたが、現在は護摩焚き供養の際に開帳されています。

星の井水神
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2014年7月 5日 (土)

新羅三郎義光の墓

新羅善神堂から山道を歩くこと約200m

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途中、木が倒れていたりでかなりびびりました(^_^;)

時間にするとそんなに歩いているわけではないのに、先の道がどうなっているのかわからず歩くと、ずいぶん時間が経っているように感じます。

しならくすると、鳥居が見えてきました。

ここに来るまで誰にもすれ違いませんでした。

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しかし、近づいてみると、花やお酒がお供えされていました。

ちゃんと管理されているのですね。

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新羅三郎義光の墓

 新羅三郎は源義光のことで、源頼義の子にあたります。兄に源義家、源義綱がいます。新羅三郎というのは園城寺北院の鎮守新羅明神を祀る新羅善神堂の神前において元服したことにちなむもので、兄も八幡太郎義家、加茂二郎義綱とそれぞれ元服した神前に由来する名を別に有しています。
 義光は弓馬の道に優れ、後三年の役(1083~87)には兄の義家を助けるため、奥羽州に出向いて清原氏の乱を兄に協力して治めています。
  義光は1172年に没し、この墓が新羅三郎義光の墓と云われています。

 大津市教育委員会    昭和62年3月   (現地案内板より)

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新羅三郎義光公供養の記  

 八幡太郎義家が清原氏を打つために奥州に遠征し、金沢の棚で陣を張ったが戦況不利のため、弟新羅三郎義光は援軍として奥州に馳せ参じる途中、足柄峠において豊原時秋に笙の秘曲を授けた史実はあまりにも有名である。
 海抜759mなし柄峠にある2m角大の岩石が笛吹き石と名付けられ、往事を偲ぶ唯一の証として残っているが、年々忘れられていくのを惜しみ、南足柄市,小山町の両観光協会は、毎年9月の第二日曜日に足柄峠において、供養および笛祭りを実施しており、祭りの中で行われる笙の吹奏、雅楽合奏などは平安の昔を偲ばせる格調高いもので、近隣の善男善女でにぎわっている。  
 この度、笙の秘曲伝授の地より義光公ゆかりの当地を訪れ、墓前においてねんごろに供養し、源家ゆかりの方々と交流が生まれれば幸いと、これを記します。   

平成2年6月4日        

神奈川県南足柄市観光協会  静岡県駿東郡小山町観光協会

ここに至るまでの道は、画像の通り、薄暗く人通りのない道なので、女性の一人歩きで行くことはお奨めできません。

私は地元の歴女さんに案内していもらいました。

これから訪れる予定の方は、十分お気をつけください。

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