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2015年3月16日 (月)

三島の旅(1)頼朝間眠の松・間眠(まどろみ)神社

間眠神社は、三嶋大社の参道を南に10分ほど歩いたところにあります。

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源頼朝が三嶋大社に源氏再興100日祈願に参拝した帰路、境内の松の大樹の下で間眠んだことから、この名がつけられたと伝えられます。

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間眠神社縁起

治承4年韮山蛭ヶ小島流嫡の頼朝が源家再興の大願を立て、三嶋大明神に百日の丑刻祈願の途上、路傍の祠の松の大樹の下にしばし下睡の夢を追われたと伝えられている。この祠こそ、往古大洪水により韮山長崎より流着した稲荷社であったと古老の口碑に伝わっている。即ち祭神は豊受姫命である。頼朝公天下を掌握するにおよびて、世人この松を頼朝公間眠の松といい、社を間眠稲荷または間眠宮と称えらるるに至った。
現に存在する安永5年の常夜灯および手水鉢に間眠宮または正一位稲荷大明神と刻してあり、徳川時代より郷土の氏子の尊崇を聚め祭られた。殊に流嫡前の鎮聖地であった韮山長崎住民の信仰は厚く往昔より毎年欠かさず8月1日の例祭には、長さ一丈胴回り六尺の大しめ縄を氏子自ら造り神前に奉納する珍しき行事が今日まで残っている。慶応元年十一月火災のため社殿宝物悉く烏有に帰し、慶応四年造営再建、明治の御代村社に列せらる。明治二十八年祭神を祀る内陣を二日町の住人・彫刻師渡辺長吉作成する。明治四十年社殿の大修理を行い、本社幣殿を増築し、大正四年幣帛供進神社に指定せられ、社務所の改築、境内周囲の玉垣の修理を完成し、間眠の松の二世が枯死した跡に三世の松を植え、紀元二千六百年記念事業として、昭和十五年箱根山組合より一町歩の原野を借受け檜苗三千本を氏子総出動にて植林し、神社の基礎大いに備わりたる時、大東亜戦争終結の悲運に接したのである。即ち、供進制度は廃止され神社保有の田畑は没収され、宗教法人としてわずかに社殿と境内地および山林の保有を認められ、氏子の維持経営に移ったのである。
時移り二十年戦後の復興めざましく、氏子中の有志は、社殿が建造後百年を経過し然も関東・伊豆の大震災に遭い損傷腐朽甚だしきを憂い、社殿の改築を図り、その用材として伊勢神宮および三嶋大社の神木の払い下げを要請するなど敬虔にして周到なる計画のもとに遂行され、昭和四十年遂に社殿改築の大業を成就した。社殿の総坪数十四坪六合五勺である。往時此の地より西南一体を「笠縫の里」と称す、住民は菅笠を編みて渡世となし居るものあり、古歌に「ふるにつけ 照るにつけてもこの神のめぐみにぞ着る三島菅笠」とあり、三嶋大社の例祭には菅の奉納の行事は続いているが、今は菅の群生地さえ皆無となってしまった。

  間眠神社氏子総代会 平成十九年 九月吉日



六代目間眠の松

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コメント

間眠と書いて「まどろみ」と読むのですか。
日本語は難しいですね。
英語の「nap」の方が簡単です(笑)

>源氏再興100日祈願に参拝した帰路、境内の松の大樹の下で間眠んだ

そんな大きな祈願をした後にお昼寝をするなんて、やっぱり頼朝は大物ですね。

投稿: めりい | 2015年3月16日 (月) 13時50分

めりいさん、コメントありがとうございます!

本当に日本語は難しいですね。
読み方がたくさんありますものね。
英語の方が簡単だと私も教えながら感じています。
私も昼寝して大物になります(爆)

投稿: しずか | 2015年3月16日 (月) 16時44分

>)頼朝間眠の松・間眠(まどろみ)神社!
源頼朝は鎌倉幕府創設者として日本中に大きな影響を残していきました。
この群馬のお宮参りでも源義家の影響が随分ありました。
後日ブログ記事にします!

投稿: willy_tsuguo_shikata | 2015年3月17日 (火) 06時21分

四方さんも源平ゆかりの寺社をかなり回られていますね。
群馬の記事楽しみにしています。

投稿: しずか | 2015年3月17日 (火) 10時43分

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