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間眠神社は、三嶋大社の参道を南に10分ほど歩いたところにあります。
源頼朝が三嶋大社に源氏再興100日祈願に参拝した帰路、境内の松の大樹の下で間眠んだことから、この名がつけられたと伝えられます。
間眠神社縁起
治承4年韮山蛭ヶ小島流嫡の頼朝が源家再興の大願を立て、三嶋大明神に百日の丑刻祈願の途上、路傍の祠の松の大樹の下にしばし下睡の夢を追われたと伝えられている。この祠こそ、往古大洪水により韮山長崎より流着した稲荷社であったと古老の口碑に伝わっている。即ち祭神は豊受姫命である。頼朝公天下を掌握するにおよびて、世人この松を頼朝公間眠の松といい、社を間眠稲荷または間眠宮と称えらるるに至った。
現に存在する安永5年の常夜灯および手水鉢に間眠宮または正一位稲荷大明神と刻してあり、徳川時代より郷土の氏子の尊崇を聚め祭られた。殊に流嫡前の鎮聖地であった韮山長崎住民の信仰は厚く往昔より毎年欠かさず8月1日の例祭には、長さ一丈胴回り六尺の大しめ縄を氏子自ら造り神前に奉納する珍しき行事が今日まで残っている。慶応元年十一月火災のため社殿宝物悉く烏有に帰し、慶応四年造営再建、明治の御代村社に列せらる。明治二十八年祭神を祀る内陣を二日町の住人・彫刻師渡辺長吉作成する。明治四十年社殿の大修理を行い、本社幣殿を増築し、大正四年幣帛供進神社に指定せられ、社務所の改築、境内周囲の玉垣の修理を完成し、間眠の松の二世が枯死した跡に三世の松を植え、紀元二千六百年記念事業として、昭和十五年箱根山組合より一町歩の原野を借受け檜苗三千本を氏子総出動にて植林し、神社の基礎大いに備わりたる時、大東亜戦争終結の悲運に接したのである。即ち、供進制度は廃止され神社保有の田畑は没収され、宗教法人としてわずかに社殿と境内地および山林の保有を認められ、氏子の維持経営に移ったのである。
時移り二十年戦後の復興めざましく、氏子中の有志は、社殿が建造後百年を経過し然も関東・伊豆の大震災に遭い損傷腐朽甚だしきを憂い、社殿の改築を図り、その用材として伊勢神宮および三嶋大社の神木の払い下げを要請するなど敬虔にして周到なる計画のもとに遂行され、昭和四十年遂に社殿改築の大業を成就した。社殿の総坪数十四坪六合五勺である。往時此の地より西南一体を「笠縫の里」と称す、住民は菅笠を編みて渡世となし居るものあり、古歌に「ふるにつけ 照るにつけてもこの神のめぐみにぞ着る三島菅笠」とあり、三嶋大社の例祭には菅の奉納の行事は続いているが、今は菅の群生地さえ皆無となってしまった。
間眠神社氏子総代会 平成十九年 九月吉日
六代目間眠の松
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東林寺は、伊東祐親が、嫡男の河津祐泰(曽我兄弟の父)の菩提を弔うために創建した曹洞宗の寺です。もとは真言宗の久遠寺として開かれ、祐親の法号に因んで東林寺と改名され、1538年(天文7年)に曹洞宗へ改宗されました。
境内には、祐泰の墓と曽我兄弟の首塚があります。
参道から山道をのぼって間もなく、蛇が現われて、少しも移動する気配がなかったので、泣く泣く断念しました。
河津祐泰
安元2年(1176年)10月、伊豆国伊東荘を巡る所領争いにより、祐泰は伊豆の奥野の狩場で同族の工藤祐経に矢を射られて落命する。享年31(『曽我物語』による)。祐泰の妻(横山時重の娘)は5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)2人を連れて曾我祐信と再婚した。 建久4年(1193年)5月28日、2人の兄弟は富士の巻狩りで父の仇である工藤祐経を討った。この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られる事になる。 祐泰が討たれた5日後に生まれた末子は、祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していた。曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害している。同じく祐泰の子である原小次郎が源範頼の連座で8月20日に処刑されている。(Wikipediaより)
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