三島の旅(17)願成就院
願成就院は、『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で、鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したといいますが、寺に残る運慶作の諸仏は、文治2年(1186年)から造り始められていることから、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられています。
その後、義時や泰時によって堂塔が整備され、巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ壮大な寺院となっていきました。
しかし、室町時代、北条早雲に攻められた堀越公方の足利茶々丸がこの寺に逃げ込んだことから、戦火に見舞われ願成就院はほぼ全焼。
さらに豊臣秀吉の小田原攻めの際、再度戦火に見舞われ全焼。本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出されたため、焼失は免れましたが多くの寺宝は灰燼に帰し、願成就院は事実上壊滅してしまいました。
江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が再建し、現在の遺構はほぼその当時のものであるといいます。
茅葺の本堂は、寛政元年(1789年)の建立とされています。
寺宝には、運慶が30代の時に造った阿弥陀如来・ 毘沙門天・不動三尊と、北条政子の7回忌に造られた政子地蔵、本堂の阿弥陀如来像などがあり、境内には北条時政の墓・足利茶々丸の墓・茶々丸首洗いの池などがあります。
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