三島の旅(22)蛭ヶ小島の夫婦の像 頼朝と政子
蛭ヶ小島には、富士に向かって源頼朝と北条政子が寄り添って立つ「蛭ケ島の夫婦像」が立っています。
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平治の乱に敗れた頼朝は、伊豆の蛭ケ小島に配流され、1160年(永暦元)2月の14歳の少年期から、1180年(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間を蛭ヶ小島で過ごしたとされます。
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源頼朝の嫡男、兵衛佐頼朝配流の地といわれています。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存することから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像されます。
永暦元年(1160年)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180年)34歳で旗挙げ、やがて鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居等の細部は詳らかではありません。
しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻である政子の父、北条時政の館に居住し館内で挙兵準備を整えたとあり、このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177年)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたといえます。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790年)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものであります。
韮山町教育委員会 韮山町産業観光課
流人といっても、伊東祐親の娘・八重姫や、北条政子とのロマンスがあったわけですから、監視は それほど厳しいものではなかったようですね。
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>蛭ヶ小島には、富士に向かって源頼朝と北条政子が寄り添って立つ「蛭ケ島の夫婦像」が立っています!
源頼朝と北条政子の夫婦像!何にか不思議に感じます!二人が仲良くこのような姿で立っているなんて想像もできませんでした。
投稿: willy_tsuguo_shikata | 2015年9月12日 (土) 07時08分
四方さん、この像は今では蛭ヶ小島のシンボルですね。
頼朝さんはこんなイメージなのかしら?
政子さんは、優しそうな感じに作られていますね。
投稿: しずか | 2015年9月12日 (土) 10時09分
頼朝は、20年もの間、この蛭ヶ小島で過ごしたのですね。
>監視は それほど厳しいものではなかったよう
そう、その清盛の脇の甘さが平家一門の滅亡へと繋がったのですね。
投稿: めりい | 2015年9月12日 (土) 14時11分
めりいさん、清盛さんは情にもろい、お人好しな方だったようですね。
頼朝と政子の強力タッグが、源氏の勝因のひとつでしょう。
投稿: しずか | 2015年9月12日 (土) 15時39分