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2015年9月

2015年9月23日 (水)

高倉天皇陵

以前、「小督と清閑寺」という記事を書きましたが、

http://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/2013/04/post-294d.html

今回は、その清閑寺の隣にある高倉天皇陵です。

高倉天皇は、愛する小督に去られたこと、わずか3歳の安徳天皇(建礼門院との間に生まれた)に無理やり譲位させられたことなどの心痛から、21歳の若さで崩御しました。

その後、小督は高倉天皇が眠る東山の天皇陵近くの庵で、天皇の墓守に殉じ、44歳で亡くなりました。
高倉上皇は、後白河天皇の第7皇子。母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹。中宮は清盛と時子の娘の平徳子(後の建礼門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父に当たります。
二条天皇の死後に立てられた二条天皇の子・六条天皇をわずか3歳で退位させ、天皇として擁立。後白河院が院政を敷き、安徳天皇に皇位を譲りました。

治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、自ら院政を開始するが間もなく病に倒れ、治承5年(1181年)1月14日に崩御。清閑寺法華堂に奉葬されました。後に法華堂は消滅。明治29年(1896年)、六条天皇清閑寺陵と区別して現陵号を設定。陵域内には、小督局の墓と伝える宝篋印塔があります。

東山の音羽山麓、清閑寺の小督の供養塔の近くに高倉天皇陵が六条天皇陵と隣り合わせになってあります。

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正面は一つですが、中で六条天皇の円墳と高倉天皇の方墳に分かれているそうです。

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2015年9月19日 (土)

三島の旅(23)源平タイルの散策路

韮山駅と蛭ケ小島を繋ぐ道は源平合戦に関わるタイルが埋め込まれた歩道になっています。

画像をクリックすると拡大します。

北条政子                  頼朝と政子  
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笹りんどう                 北条一族
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北条時政                 江川邸
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真珠院と八重姫             餅売り姥と成願寺
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梛の木                   蛭ヶ島
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池の禅尼                 北条早雲
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平清盛                   平治の乱
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清和源氏系図              源頼朝 
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これを読みながら歩いていると、歩くのも苦にならず、あっという間に駅に着いてしまいます。

運動がてら、歴史の勉強はいかがですか?

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2015年9月11日 (金)

三島の旅(22)蛭ヶ小島の夫婦の像 頼朝と政子

蛭ヶ小島には、富士に向かって源頼朝北条政子が寄り添って立つ「蛭ケ島の夫婦像」が立っています。

(クリックすると、画像が拡大されます)

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この像とは、約10年ぶりの再会です!(^^)!

平治の乱に敗れた頼朝は、伊豆の蛭ケ小島に配流され、1160年(永暦元)2月の14歳の少年期から、1180年(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間を蛭ヶ小島で過ごしたとされます。

このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源頼朝の嫡男、兵衛佐頼朝配流の地といわれています。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存することから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像されます。
永暦元年(1160年)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180年)34歳で旗挙げ、やがて鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居等の細部は詳らかではありません。
しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻である政子の父、北条時政の館に居住し館内で挙兵準備を整えたとあり、このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177年)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたといえます。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790年)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。
また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものであります。
 

韮山町教育委員会 韮山町産業観光課 

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素敵な二人のモニュメント   

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流人といっても、伊東祐親の娘・八重姫や、北条政子とのロマンスがあったわけですから、監視は それほど厳しいものではなかったようですね。

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2015年9月 3日 (木)

三島の旅(21)真珠院 八重姫主従七女の碑

八重姫主従七女の碑

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八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院のはじまりだともいわれています。

侍女たちは、その後伊東へ帰る途中で自害したと伝えられています。

境内に「八重姫慕情」の歌碑というのがありました。

作詞 伊東まで  作曲 牧伸太郎  編曲 池多孝春

桜吹雪に 木漏れ陽の   揺れて無情の 憂いあり
伊豆韮山の 中條に   立てば遠き 空の果て
侍女に守られ 八重姫は   頼朝公を 御慕い
悲恋はかなく 落葉舟   真珠ヶ淵の 渦の中
里人いでて 走れども   岸高くして 底深く
夕暮れせまり いかにせん   救わせたまえ 姫の身を
那木の木末の そよぐ下   供養の塔に かけられし
小さき梯子 数いくつ   治承の昔 偲ばれる

どんな曲なのでしょうね~興味津々(^_^;)

本堂

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境内には1302(正安4)年銘の定仙大和尚塔、1335(建武2)年銘の宝篋院塔と五輪塔、1363(貞治 2)年銘の阿弥陀如来磨崖仏(いずれも町指定文化財)が残されています。

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