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寿永4年(1185)源氏と平家の最後の戦いとなった壇ノ浦合戦の跡で、 二位尼に抱かれた安徳天皇はわずか8歳にして壇ノ浦の海へ入水し、平家は滅亡しました。
日本史の節目を刻む関門海峡
西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。
寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。
下関市
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安徳帝御入水之処碑
「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」
が刻まれています。
寿永4年(1185年)に壇ノ浦の戦いで、最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げました。
安徳帝「私をどこへ連れて行くのか」
二位尼「波の下にも都があります」と安徳帝を抱きながら、海の中へ身を投げたといいます。
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