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2015年11月

赤間神宮(1)水天門 ~水天供養塔

文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は、現場付近では発見されませんでしたが、建久2年(1191年)、勅命により下関に御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりとされています。

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当時は阿弥陀寺といい、奇兵隊の本拠地にもなりました。

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明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって赤間神宮となりました。

水天門
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竜宮城を模した竜宮造の楼門です。

「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることから。
  

ふり返ると、関門海峡を行きかう船が見えます。

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幕末の動乱期、稲荷町には「大坂屋」という遊郭がありました。大阪屋は稲荷町では最大の鵜遊郭で、坂本龍馬や高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが出入りしていました。
大阪屋のあったところは、現在は東京第一ホテル下関が建っています。
その大坂屋が藩政期に女官の美風を後世に伝えようと始めたのが、花魁の赤間神宮参拝で、花魁が稚児たちを引き連れ、参拝する行事は上臈参拝と呼ばれます。
上臈参拝は源平合戦で生き残った平家の女官が安徳天皇の命日に、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)に参拝したことに由来します。
現在も、毎年5月、壇ノ浦の戦いで関門海峡に入水した安徳天皇をしのぶ「先帝祭」で、花魁に模した太夫が禿、上臈、稚児、警固らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く行事が行われています。

安徳天皇神徳記
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水天供養塔
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平家茶屋
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安徳天皇阿弥陀寺陵

下関の赤間神宮境内に、安徳天皇阿弥陀寺陵があります。

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壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子に収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。
明治時代の廃仏毀釈運動により、阿彌陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされ阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされた。(Wikioediaより)

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なお、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり、九州四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があります。

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壇ノ浦に沈んだ碇知盛

寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで、追い詰められた一門は、安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた平知盛は、海へ身を投げ自害しました。享年34。
自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」
と言い残して入水したとも言われています。

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碇知盛」は、浄瑠璃「義経千本桜」の二段目「渡海屋」「大物浦」の段が、人形浄瑠璃および歌舞伎で上演される際の通称で、源義経に復讐しようとした平知盛が再び敗れ、碇綱をからだに巻いて海中に沈む場面が描かれています。

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謡曲「碇潜(いかりかつぎ)」と壇ノ浦

 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
 壇ノ浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍(いくさ)物語を所望する。
 漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の弔いを願う。
 旅僧の回向(えこう)に導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉く(ことごとく)入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。とういう構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇ノ浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に想いを馳せる海岸である。

謡曲史跡保存会

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海峡守護『碇』の由来

 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
 今を去る八百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、龍宮城に旅立たれました。
 それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。

昭和六十年五月二日
源平八百年祭を記念して
寄進 下関海洋少年団

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