赤間神宮(1)水天門 ~水天供養塔
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は、現場付近では発見されませんでしたが、建久2年(1191年)、勅命により下関に御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりとされています。

当時は阿弥陀寺といい、奇兵隊の本拠地にもなりました。

明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって赤間神宮となりました。
竜宮城を模した竜宮造の楼門です。
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることから。
ふり返ると、関門海峡を行きかう船が見えます。
幕末の動乱期、稲荷町には「大坂屋」という遊郭がありました。大阪屋は稲荷町では最大の鵜遊郭で、坂本龍馬や高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが出入りしていました。
大阪屋のあったところは、現在は東京第一ホテル下関が建っています。
その大坂屋が藩政期に女官の美風を後世に伝えようと始めたのが、花魁の赤間神宮参拝で、花魁が稚児たちを引き連れ、参拝する行事は上臈参拝と呼ばれます。
上臈参拝は源平合戦で生き残った平家の女官が安徳天皇の命日に、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)に参拝したことに由来します。
現在も、毎年5月、壇ノ浦の戦いで関門海峡に入水した安徳天皇をしのぶ「先帝祭」で、花魁に模した太夫が禿、上臈、稚児、警固らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く行事が行われています。
応援のポチッのご協力お願いします。![]()





















最近のコメント