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2015年12月

2015年12月28日 (月)

赤間神宮(4)平家蟹

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平氏の亡霊が乗り移ったとされる伝承を描いた歌川国芳の浮世絵。

この絵の左に、平家蟹が描かれています。(クリックで画像拡大)

薙刀を持った人物は平知盛

赤間神宮の社務所の前に平家蟹の標本が展示されています。

Img_1911

平家蟹 は、日本近海の浅い海に分布する小型のカニで、甲羅の凹凸と平氏にまつわる伝説が知られています。 甲の模様が、人間が怒った時の表情に似ていること、また瀬戸内海や九州沿岸に多いことから、壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れて海に散った平氏の無念をなぞらえ、「平氏の亡霊が乗り移った」という伝説が生まれました。

また、大和本草では長門・豊前では、「キヨツネガニ」という呼び名もあり、1183年に豊前・柳が浦で入水した平清経を指しています。

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2015年12月20日 (日)

赤間神宮(3)平家一門の墓(七盛塚)

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の墓(供養塔)が赤間神宮の境内にあります。

Img_1898 Img_1909

この墓は、1185年の壇ノ浦の合戦から400年経った1600年頃に建てられたといわれています。
平家が滅亡して以来ずっと、関門海峡では海難事故が頻発し、「平家の怨霊」の仕業ではないかと恐れられていました。そこで、下関近辺に散在していた墓標をこの地に集めて供養するために建てられたともいわれています。

Img_1904 Img_1908

以下14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも呼ばれています。

左近衛少将有盛
左近衛中将清経
右近衛中将資盛
副将能登守教経
参議修理大夫経盛
大将中納言知盛
参議中納言教盛
伊賀平内左衛門家長
上総五郎兵衛忠光
飛騨三郎左衛門景経
飛騨四郎兵衛景俊
越中次郎兵衛盛継
丹後守侍従忠房
従二位尼時子

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                       二位尼時子

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ここは、現在パワースポットとしても有名だそうです。

10年前に来た時も思いましたが、たしかに他とは違う空気を感じます。

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2015年12月 7日 (月)

『お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル!!』

今晩19時からのテレビ朝日系列

お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル!!』 で、

世界遺産奥州平泉&源義経ミステリーSP」が放送されます!!

爆笑問題・太田光が八木亜希子と共に世界遺産・奥州平泉へ!

義経が最期の時を過ごした平泉に残る痕跡とは?

カンニング竹山が義経が修行をしたとされる「京都・鞍馬寺」、

小籔千豊が義経ゆかりの寺「鎌倉・満福寺」へ

番組HP↓

http://www.tv-asahi.co.jp/bucchakeji/

源平ファンの皆さん、お見逃しなく!!

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2015年12月 3日 (木)

赤間神宮(2)耳なし芳一

赤間神宮の境内には、耳なし芳一の像が祀られています。

Img_1899 Img_1900


「耳なし芳一」は、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を舞台とした物語で、小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、有名になりました。

画像はクリックすると拡大します。

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Img_1903

物語

阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。

ある夜、和尚の留守の時、突然一人の武士が現われる。芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよくわからなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにしたがって皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。

和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。和尚は怨霊たちが単に芳一の琵琶を聞くことだけでは満足せずに、芳一に危害を加えることを恐れ、これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じた。和尚は自分がそばにいれば芳一を守ってやれると考えたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。かといって寺男や小僧では力不足である。芳一を法事の席に連れていっては大勢の怨霊をもその席に連れて行ってしまうことになりこれでは檀家との間にトラブルを発生させる危険性がある。そこで和尚は芳一を一人にするが怨霊と接触させない方法を採用することで芳一を守ることにした。和尚は怨霊の「お経が書かれている身体部分は透明に映り視認できない」という視覚能力の性質を知っていたので、怨霊が芳一を確認できないように法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写した。ただしこのとき耳の部分に写経し忘れたことに気が付かなかった。また音声によって場所を特定されることを防ぐために芳一に怨霊の武士に声をかけられても無視するように堅く言い含めた。

その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。しかし経文の書かれた芳一の体は怨霊である武士には見えない。芳一が呼ばれても返事をしないでいると怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば・・・」という独り言が聞こえる。しかし怨霊には、写経し忘れた耳のみが暗闇の中で見え、「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳の他、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、出来る限り上様の仰せられた通りにした証として、この耳を持ち帰る他あるまい。」と言い、耳だけ持ち帰ることが結果的に芳一にどのような損傷を与えるかに思いをいたせず、頭部から耳をもぎ取ってそのまま去って行った。 朝になって帰宅した和尚は耳をもぎ取られ血だらけになって意識のない芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後、芳一の身体に般若心経を写経した際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまったことに気づき、芳一に、小僧の見落としについて謝罪した。その後、怪我は手厚く治療されこの不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたという。結果的に芳一に降りかかった禍は彼の名声を高めることに寄与したことになる。
(Wikipediaより)

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