赤間神宮(5)日本西門鎮守八幡宮
赤間神宮の拝殿の右隣に日本西門鎮守八幡宮があります。
貞観元年(859)大安寺の行教和尚が、豊前の宇佐八幡宮から京都の岩清水に分霊を勧請する途中、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに創建されたと伝えられています。
以来、鎌倉幕府を始め、大内、毛利両氏の崇敬が厚く、阿弥陀寺とともに栄えました。
阿弥陀寺が天皇社、赤間神宮となっても、鎮守八幡宮は鎮座していましたが、昭和20年の空襲で社殿などを焼失し、養治小学校の奉安殿を移築して仮本殿としました。
その後 同29、37年の戦災復興造営事業を中心に、氏子による奉賛により、本殿、拝殿が再建されました。
日本西門鎮守八幡宮御由緒記
御祭神 八幡大神 神功皇后
御祭日 2月3日節分祭 7月29日 夏越祭 10月15日 例大祭
今から約1200年のむかし貞観元年行教和尚が宇佐から京都の石清水へ御分霊を歓請される途次関門の風光絶佳なる当地に日本西門の守り神として創建せられた鎮守八幡宮である。
それより鎌倉幕府を始め南北朝室町時代から江戸時代まで大内毛利氏など多くの戦国大名の尊崇を集めた。昭和20年7月2日大東亜大戦の禍を蒙り社殿は全焼したが養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期すを得たるも氏子の熱誠によって昭和29・同37年の両度にわたる戦災復興造営事業を中心に本殿拝殿などめでたく竣工、宇佐本営の例に倣い朱色も鮮やかに完成された。尓来20年毎の式年大祭を行い社殿整備さらに神学の創作もおこなわれ阿弥陀寺町・みもすそ川町・壇の浦町・本町・宮田町・上宮田町など十五ヶ町の氏神として御神徳をあらわされ日本国の西門の守護神として関門海峡に臨み神意愈々発揚されているものである。
平成16年甲申10月
御鎮座1145年記念 宮田謹誌
弘安5年(1282)の古文書によると、
弘安の役の際に、山陰沿岸や関門海峡までフビライ軍の船が来襲してきたが、そのとき不思議にも、この鎮守八幡宮の神殿の扉が自ずから開いて、光る玉が海中に飛んでいったかと思うと、たちまち大風になって、敵船をことごとく吹き破ったと記されているそうです。
また、源平合戦の時には、劣勢になった源氏の大将が八幡宮に祈ったところ、白い旗が天から舞い下り、それから形勢が逆転して源氏の大勝となった、とも伝えられています。
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>弘安5年(1282)の古文書によると、弘安の役の際に、山陰沿岸や関門海峡までフビライ軍の船が来襲してきたが、そのとき不思議にも、この鎮守八幡宮の神殿の扉が自ずから開いて、光る玉が海中に飛んでいったかと思うと、たちまち大風になって、敵船をことごとく吹き破ったと記されているそうです。
また、源平合戦の時には、劣勢になった源氏の大将が八幡宮に祈ったところ、白い旗が天から舞い下り、それから形勢が逆転して源氏の大勝となった、とも伝えられています。これは日本は神の国の由縁ですね。
投稿: willy_tsuguo_shikata | 2016年1月16日 (土) 06時45分
四方さん、弘安の役も源平合戦も面白いエピソードがあるのですね!
投稿: しずか | 2016年1月16日 (土) 14時23分
赤間神宮の拝殿の右隣に「日本西門鎮守八幡宮」があったのですね。
全部赤間神宮だと思ってました(笑)
投稿: めりい | 2016年1月19日 (火) 20時24分
めりんさん、私も10年まえに行った時は、その名前に気付きませんでした(^_^;)
投稿: しずか | 2016年1月20日 (水) 11時23分