下関の末廣稲荷神社
北前船で賑わった下関には、遊郭街として稲荷町、裏町がありましたが、現在は街並みは変わり、わずかに末廣稲荷神社が往時を偲ばせてくれます。
元を辿れば、壇ノ浦の戦いで、生き残った平家の女官たちが、平家一門の菩提を弔い、遊女となったといわれています。
ビルの合間を通り抜けて、末廣稲荷神社を参拝しました。
末廣稲荷神社
御祭神 倉稲魂神
例祭 三月牛の日
由緒
稲荷大明神。当社開基は人皇第五十一代平城天皇御宇
大同四年巳丑九月七日鎮座
棟 札
奉造立稲荷社一間四面一宇
右恙起者奉爲金輪聖王天長地久御願成就殊当
将軍御息安穏国土静謐、当社大宮司子孫繁栄寿命
長久(以下解読不明)大同四年丑九月吉祥日
右の古文書が伝えている通り当社は平安時代初期の大同四年(西暦八〇九年) に祀られた下関最古の稲荷神社で古来商家の崇敬篤く赤間関の繁栄の
守護神として信仰されてきました。社の麓はもと稲荷町と言って日本の郭の 発祥地とも言われております。数々の妓楼、名岐(ママ)の名と共に稲荷町の名は全国に
鳴り響いたものです。井原西鶴、十返舎一九、頼山陽など古くから文人墨客が 訪れ幕末の志士、高杉晋作、伊藤博文、山縣有明、井上馨の夫人は
当地の出身であり全国からの参拝者も多くありました。
往時は背後に稲荷山を控え境内には末広さんの桜と称して大きな
桜並木があり信仰と憩いの場所でした。昭和二十年の空襲によりすべてを 焼失し稲荷町の面影はきえておわりました。其の後昭和二十八年に復興され
ましたが近年社殿の打損がはげしくこの度たくさんの人々の奉賛によりまして 昭和六十一年十二月二十日に新社殿が朱も鮮やかに造営されました。
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