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2016年4月11日 (月)

下関の遊郭跡 平家の女官と稲荷町

下関の唐戸市場の北側、現在の赤間町は、昭和20年代まで稲荷町と呼ばれていました。

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この地の町名は、大同4年(809)の創建と伝えられる稲荷神社に由来するもので、北前船の寄港で賑わった江戸時代には、壇ノ浦で敗れた平家生き残りの女官らとの血縁が語られる遊女に端を発した、格式の高い花街として広くその名を知られ、妓楼「堺屋」には、高杉晋作の愛人うのもいたそうです。

最盛時には、大坂屋を中心とした花魁芝居や先帝祭の上臈参拝行事の起源の地としても知られ、また幕末維新の頃には、高杉晋作、伊藤博文ら若き志士たちもこの界隈を往来していた所です。

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稲荷神社(末廣稲荷神社)
 

 平安時代の大同四年(西暦八〇九年)に倉稲魂神 (うかのみたまのかみ)を祀った、赤間最古の神社 で、古来商家の崇敬が篤く、赤間関の繁栄と守護神 として信仰されてきました。
 神社の麓はもと稲荷町といって、日本の郭の発 祥の地ともいわれております。下関は江戸時代初 めの頃から北前船(千石船)の寄港地となり、西の 浪速(大阪)と称されるほど繁栄していました。その 隆盛と共に当地も栄え、数々の妓楼、名妓の名と共 に稲荷町の名は全国に鳴り響いたものです。井原 西鶴・十返舎一九・頼山陽など、古くから文人墨客 が訪れていました。
 また、高杉晋作の愛人おうのは、裏町堺屋の芸妓で、 源氏名を「此の糸」、通称を「うの」といい、「三味線 師匠」という身でした。  
稲荷神社は、町の中心にあり、境内には末広稲荷 さんの桜と称して大きな桜並木がありました。 信仰と憩いの場でしたが、昭和二十年の空襲に よりすべてを焼失し、繁栄の面影はとどめていま せん。
 昭和二十八年に神社は復興されましたが、老朽 化したため、多くの方の奉賛により、昭和六十一年 十二月に、新社殿が朱色も鮮やかに造営され、再び 厚く信仰されています。

 

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コメント

>北前船の寄港で賑わった江戸時代には、壇ノ浦で敗れた平家生き残りの女官らとの血縁が語られる遊女に端を発した、格式の高い花街として広くその名を知られ、妓楼「堺屋」には、高杉晋作の愛人うのもいたそうです。
始めて知りました。吃驚です!

四方さん、10年前にはこの辺りを歩かなかったので、見逃していました。
街の歴史を辿ると、悲しい女性たちの話があったのですね。

>壇ノ浦で敗れた平家生き残りの女官らとの血縁が語られる遊女に端を発した、格式の高い花街

稲荷町は、幕末の志士ゆかりの地だとばかり思っていましたが、源平時代もゆかりがあるのですね。

めりいさん、昨年は、幕末の史跡を追って、下関に行ったのですが、改めて源平ゆかりのスポットも取材できました。

はじめまして。平家物語を味わいたいと思い、図書館で「歩いて楽しむ平家物語」をしばらく堪能していました。
このブログをみつけ、自分ではなかなか行けないけど、行った気になって、楽しめるぞ!と嬉しくなりました(^^)

さとさん、はじめまして!
コメントありがとうございます。

私もその本読みました(#^.^#)
源平の史跡は、全国に点在しているので
10年以上あちこち歩き回っても制覇できていませんが、ほそぼそとながらも当ブログを続けていけたらと思っています。
またお時間のある時にお立ち寄りください!

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